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だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

ヌード写真を公開したことによって起きた内側の胸騒ぎ。

日常

私が見てる真っ赤な太陽は、日本中のどこにいても、真っ赤に見えるのだろうか。

 

高速バスに3時間揺られている道中、窓越しに見えた沈みかけた太陽は、国旗みたいに意味深な赤だった。手は反射的に鞄の中からカメラを探したけれど、構えたところで、太陽の方向に地蔵のように座ってるおじいちゃんの頭がどうしてもフレームインしてしまうため、私はそれをじっくりと脳裏に焼き付けることにした。(おじいちゃんの後頭部を、じゃないよ。) 到着したのは、道の駅。一面の雪景色とポツリポツリと佇むロッジみたいな一軒家。歩いている人なんていない。聞こえるのは、シャーベット状の雪を踏みしめる自分の足音と、たまに抜き去っていく車だけ。

そして、進む道の先には羊蹄山が聳え立っていた。

 

 

 

 

 

ニセコだ。

 

 

 

 

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先日、私はこのニセコで、雪中ヌード写真を撮影してもらった。

旅のお供をしてくれたカメラマンのちーちゃんが撮影メニューの中に斬新なそれを、新サービスとして加えていた。

 

ちーちゃんが最近そういった写真を撮ってるのも知っていたし、ちーちゃん自身が被写体にもなっていたのも知っていた。私はちーちゃんの裸を見た時に、絶対的な美しさというか、か弱く、女性らしい身体のラインの中に秘められた「強さ」みたいなのを感じて、自分の深いところにグッときたんだ。最終的には、自らが望んで撮影を懇願した。しかも敢えての氷点下の極寒地での撮影を希望した。(ちーちゃん、本当にありがとう…!)

 

正直クレイジーな撮影だったけれど、写真には、普段見ないようにしていた丸みを帯びた緩やかなラインもガッツリと記録されていて、私はその写真に衝撃を受けた。頭の中と現実とのギャップに絶望せざるをえなかった。それでも、そこにいた女子たちは「超いい!」「綺麗!!」「素敵!!!」と言ってくれて、ギリギリ二本足で立ってられるくらいの衝撃を受けていた私も、自分の身体に「燃えろ脂肪!」「収縮しろ筋肉!」と叱咤したり罵声を浴びせることよりも、すぐに圧倒的な「イイね!!」を送る状態になった。

 

 

 

 

 

そしてせっかくだからその写真を、ちーちゃん同様にSNSに公開することにしたんだ。

 

 

 

 

 

公開しても後悔しない?みたいなダジャレみたいなことをしようとしている私。

グラマラスとは到底言えない自分の裸体を晒すことは、正直「誰得?」な行動だけれども、それは賛美の声が聞きたかったわけでもなく、私は何かを越える感覚、その先に素敵なものがあるような気がするみたいな。なんか世界が変わりそうなワクワク感を感じて、2、3日晒すとしても上は隠せてても写り込んだお尻はどうするか悩んだ挙句、お尻を含めてそれをfacebook上に公開した。(申し訳ないがブログには公開せず、facebookの友人のみの公開)

 

多分あの瞬間、何かが終わって、何かが始まったのかもしれない。

 

 

ヌード写真を撮ると、「女性らしさに磨きがかかる」とカメラマンちーちゃんは言ってたけれど、それは確かにそうだと思う。具体的にこうしたいとか、ポージングだとか、身体作りに関することに意識が向く。でも、写真を公開後に起きた内側の変化は、「うっふん♡」というのが口癖の、「妖怪☆振り撒きホルモン!」化するほどの女性性と思いきや(そんな妖怪いるか知らんけど)、ヒゲが群生しそうなくらいに芽生えた、男性性だった。なんか知らないけど「かかってこいや感」が湧いてきたんだ。

 

だけどそれは、「私の中の女が死んだ」というわけではない。

むしろ、過去最高にイキイキとしてる。受け入れる性質の女性性は、今現在私の身体に纏っている怠惰なお肉も、日が沈む方角に傾いた丸い背中も、ヒールを履かなくなったことで緊張感が年中なく、夏は水着も着ることもない。自分を魅せることから退いた日々が凝縮されたこの身体を十分に受け止めたことによって、「かかってこいや感」になったんだと思う。公開してからなぜか、「ふざけんな」とか「舐めんな」とか、頭の中で口の悪いオラオラしているヤツも湧いて出てきた。

 

それはそいつが、私に対して言ってる言葉なんだと思った。

 

 

裸を公開する覚悟。情報リテラシーの重要さが叫ばれる中で、敢えてSNSに晒す。

それはつまり、自分の行動の基準値を上げること。

自分の裸が問題になってしまう世界で、私は生きない!という決意。

私の世界は私が決める!という決意。

それに付随して、「じゃあアレもコレも基準を上げていかないとバランス取れないよね」的なことが日常生活の中で次々と起きる。

 

自分を超える瞬間は結構しんどいし、私は残念ながらそんなに強くはないのでヘコタレそうになったりする。けど、今の私は、過去の自分が、楽しい世界へ連れてってくれる。そんな新しい感じがします。

 

こわいものがなくなった、刀を持った女。

もしかしたらいま、最高に女性性と男性性のバランスが取れているのかもしれない。

 

 

下手な脱皮話を綴るより、よっぽど余計なものを捨てられる新手のヌード撮影。

 

 

オススメです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に。冒頭に戻るけど、私は昨日からニセコにいます。

特にもう裸体で外に出る予定はありませんが、滞在先にお風呂がなく、これから毎日通う温泉の脱衣所には体重計が「ここ乗って乗って!」と言わんばかりに私を待ち構えているのですが、とにかく2㎞先を見るようにしてスルーしています。もし、お風呂でのオススメエクササイズがあれば教えてください。

 

全力で絞ります。

世界は、今日も完璧にまわってる。

日常 私の太陽化計画

デスクトップだけじゃ不便だなぁ。

今年はたくさん移動が多そうだから、ノートPCが欲しい。

 

そうだ。

mac bookがいい。

色は、ゴールドがいいな。

 

フィット感が完璧で、サイズも打ちやすさも、完璧。

ネットが遅いとストレスだし、外付けのHDはやだなぁ。

CPUには1.2GHz、容量は500GBのSSDを搭載させて、それがある生活を描く。

 

 

 

 

 

あぁー快適じゃ。

 

 

 

・・・

 

 

 

 

 

 

と、思っていたら、158,000円のそれがある日整備品で、116,300円に。

約10万円のギャラの仕事と一緒に舞い込んできました。

 

 

 

 

手元に来たってことは、やっぱり今年は移動が多くなる。

 

世界は、今日も完璧にまわってる。

描き始めてから約1ヶ月くらいの間にできたこと。

 

 

ありがとー!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ただし、これで更新が増えると思ったら、大間違いやぞ!!!

 

脳に従わず、ハートで生きる

私の太陽化計画

音が、消えていく。

 

北キツネも野うさぎも出てくる山の麓みたいなこの場所で、昨日の夜からまた、たっぷり雪が降った。 

 

しんしんと降る雪が、音をぐんぐん吸い込んでいく。
雪に見とれているうちに作られた音の向こう側では、心の深い所まで真っ裸にされるみたいになる。

 

普段感じられない、じぶんの隠れた気持ちが浮き彫りになって、悲しくなることだってある。
この悲しみは、自分が自分に嘘ついた分だけ、じわじわと染み込んでくるように感じるんだと思う。


 

あったかいお風呂に入った時の「あぁ・・・////」という気持ちでもなく


絶景を目にした時の「あぁ・・・!」という気持ちでもなく


雪景色を見た時の「あぁ・・・」という独特の気持ちは、何にも代え難い。 

 

 
それでも、無骨なコンクリートを覆う大量の雪に太陽と月が順番に光を照らして、北海道の冬は一日中明るい。

外からの情報をシャットダウンして、強制的に瞑想状態にさらされるのが、雪国なのかもしれない。
 
 

 

 

「もっとよく考えろ。」と、「社会は厳しい」と、言われるがままに自分を押さえ込んで、外の世界にだけ目を向けることに、慣れすぎていたのかもしれない。

そして、それを信じて疑わなかった。
 
 
足りない。
 
無くなる。
 
埋まらない。
 

こんな脳から生まれる自分の欠乏感にもとずいて行動しても、なにも満たされないことなんて、小さい頃にきっと気付いてたんだ。最も合理的なのは、感じた末に出てきた思いを素直に行動にうつすこと。それをどれだけ重ねたかによって、欠乏感は幸福感のある現実に変わってく。
 

 

だから、しばらく脳みそ使うのやめることにしました。
 

 

「頭皮硬いですねー」って言われるくらい今まで考えすぎていた。
心穏やかな場所を探して一生懸命頭働かせても、目的地から遠退いていくだけ。
 
 
脳を使うと、無いもの、無くなったら困るもの、結果を見せてくれる。
ハートを使うと、欲しいもの、胸を踊らせるもの、プロセスを見せてくれる。
 
純度の高い感覚人間になっていく。
 

 

脳を使うと、このプロセスが邪魔されてしまう。
抵抗することなく、委ねる。手放していく。
 
 
 
私のこれからの「心地良い」は、なんだろうか。

これまでと、これからと、今この中心にあるもの。

私の太陽化計画

数年前に撮ってもらった写真を見つけた。
たしか代官山で、空を仰ぐのに眩しくない、やさしい空の日だった。
 
 
大切なことも、そうじゃないかもしれないこともザザッと書きます。

*****************************
 

私は、自分では到底理解できない出来事が起きた時、「この出来事の意味は一体なに?」と考えた。考え始めたあの日から、もうすぐ丸2年経つ。

その意味は、
 

自分の根本的な弱さと向き合うためだったのかもしれない。
 
 
愛とは何かを知るためのきっかけだったのかもしれない。
 
 
人と人とはもっと深ーいところで繋がっていること、
 
 
この世界は、まるで時を刻んだ地層みたく、幾つもの違う世界が重なり合っているということも。
 
 
結局、「死」とか「生」とかみたいに、一生かけても解明できない出来事だとしても、意味なんか自分でつけるしかないみたい。

  

 

そして、この2ヶ月間は「己の本当に心地良いと思うものはなんぞ?」と、問われているような時間だった。
 
こたえは、「私は、私でいたい」ってことだった。
 
私は自分の世界が、心の中が、誰かに侵食されているかのような気持ちに度々なるけれど、それは、誰かが自分の中にズカズカと入ってきたわけじゃない。自分が自分の中心からズレただけなんだってこと。
  

イライラも、くよくよも、鬱々とした気分も全部、中心からズレた時だけわいて出て、それが勝手に私の世界に色を付けていく。でも、誰も私の中に入ってきたりしてなかった。私が、自分の声より、外の声に耳を傾けてしまっただけ。
 
 
安心で、安全で、すべてがそこに在る。
 
 
心の中心って、そんな場所。
 
 
私でいたい。それはすなわち、私の中心にいたい。
 
  

もう一つは、人との交わりは、自分と相手の一部が重なり合う、瞬間的で、流動的なものだということ。物や人への執着心を持つことは、その流れを止めてしまうこと。

 
いま自分の目の前に広がっているのは、
 

いつかの私が、思い描いていた理想の世界の1つ。
 
 
私はその世界が自分の一部だと、勘違いしていたこと。
 
 
流れを止めることは、痛みにもなるってこと。
 
 
流れを受け入れることは、流れに乗っかること。
 
  
 
すべては、流れだということ。
 
 
 
 

この写真をパソコンのフォルダから発見した時、まだあどけなさが少しだけ残ってるこの写真の中の私を、自分ではなく、よく知っていて、私にとって最も大切な人のような、まるで自分自身じゃない人のような、ものすごく変な気分になった。
 
 

まだ東京にきて間もなくて、人を疑うこともせず、自分のことも疑わず、絶望も知らず、世界はきっと思った通りになることを信じて、ただただ、新しい世界を待ち望んでいる瞳。 
 

でも、この先の、彼女がこれから少し長いトンネルを潜ることになるストーリーを思うと、ボロボロと涙が出た。
 


止まらなかった。
 


   
 
 
 

私がそうさせてしまったんだなと思った。

 
 
 
 
 
 
 
 
・・・・・・
 
  

という訳で、束の間の開業宣言でしたが、これにて終了です!笑
 
だめだー!と諦めたわけでもなく、向き合ったからこそ見えてくる世界がありました。やってみたかったことを世に出して実際にやってみると、本当に受け取りきれないくらいのたくさんのことを、世界は教えてくれた。
父の愛情や、心の底から愛した人のこと、新しい自分の居場所や、今この瞬間の深い理解、そして、これからのことも。本当に書きつくせないほど、深い深い脱皮ができました。


その代わり、自分の深いところに、光るなにかを見つけたかもしれません。

 

本当に世に出してよかった。晒すって、やってみるって、本当に面白い。みんなの目が、私を浮き彫りにしてくれる。

何をしているのかよくわからなかったという方も、見守ってくれた方々も、ありがとうございました。

特に今後どうするとかの宣言はしませんが、今は自分の中心に浸っていたいということだけ。 
 
 
 

 

 

そして、今度は、彼女をもっと素敵な世界に連れて行ってあげたい。 

 

 

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身体の中の、行方知らずのカロリーたち

私の太陽化計画 日常

 

我が家の年末年始の食事は、毎年豪勢だ。

  

「大晦日なんだから。」「お正月なんだから。」という理由で、1年で溜まったフラストレーションの消化と、年始のロケットダッシュ効果を目的とするかのような食材やお酒が、毎日宅配で我が家に届く。足りない細々としたものは大丸へ。いつもなら「我慢しろ」とか「こんなの必要ない。」と言われそうな品々が、次々とカゴの中へダイブしていく。どこにそんな金があるのかと、抑制の効かない消費活動は、そのカゴを持つ私を終始不安にさせた。

 

 

その財布の紐がユルユルになったタイミングで、食事とも年末年始とも関係ないものを、パソコンの前でポチっている母の背中を幾度となく目撃した。人間とは、解放すると歯止めが効かず、ある程度進んだ所で「ハッ!!」と、我にかえるみたいなことがある。普段から倹約家というわけでもなく、かなりのどんぶり勘定でよくそんなに上手くお金を管理できるなと感心しつつも、それにあやかろうと「私も欲しいものが」という言葉がフワフワと浮かんだが、冷静に考えてやめた。見事なロケットダッシュ後に、我が家の家計がまわらなくなり、急失速したら困るからだ。

 

 

 

テーブルを彩るおせちやら、毛蟹やら、すき焼きやらに、数々の母の手料理も追加。その準備が整うにつれ、冷蔵庫の中は料亭の冷蔵庫のように普段見ないものでいっぱいになり、それらの食事はたった3日間で、我が家のレギュラーメンバー(父、母、私)とゲストメンバー(兄、嫁、姪)ですべて平らげられたのである。

 

 

視覚的にも、美しいものばかり。

いや、本当においしかった。胸いっぱい。ごちそうさまでした。

 

 

  

年末年始の母の行動が印象的すぎて出だし話が長くなってしまったが、

問題はその後である。

 

 

 

行方の決まったカロリーはエネルギーというだけあって、目的があれば瞬時に燃料として使われる。

活用すれば、考える力にも、身体を動かす力にもなり、いずれにしろ生産的な生きるパワーに変換されるのに、行方の知れぬカロリーたちは、時間とともに性質を変えて負のエネルギーとして体内をさまよい続け、エネルギーの動きの少ない部位を住処に、ぷにぷにの二の腕や、たるたるのお腹、力強いハムストリング!ではなく、「ハム」みたいな太ももに形を変えていく。

 

 

おいしい食事と、伸び広がった胃は、通常だと満腹中枢の「FULL」というサインが赤く点灯するはずなのに、視神経からのキラキラとした情報が多いからか、嗅覚からのお誘いが止まらないからか、脳からその信号は送られず、物理的に満たすまで一向に食欲は収まらない。

 

 

正月が終わってからも、まるで朝から晩まで動きまくった運動部の中高生みたいに、私はエネルギーを欲している身体に入るだけ高カロリーなものを流し込んだ。

 

 

豊満な、重くて邪魔な、場合によってはかわいらしくも非生産的な身体は、こうやって作られるのかと、ふと当たり前のことが頭を過る。

 

 

 

 

 

 

 

 つまり、今日は何が言いたいかというと、

 

 

 

 

ただ「太っちゃったよ!」ってこと。

 

もっともっと、自己中心的に生きていい。

私の太陽化計画
今朝、布団の中で目覚めた瞬間に『あぁ、つまんないな。』って思いが湧いた。
 
 
やっと、平和な毎日のルーティンに飽きた瞬間が、今日だった。きっとそれは、自分が満たされた瞬間でもあったんだと思う。焦りでいっぱいで、自分も周りも見えなくて、バタバタと行動していた札幌上陸時よりも、ずっとずっと潔く、曇りのない穏やかな感情。
 
人は焦らずとも、満たされれば自ずと腰が上がるらしい。
 
 
湧いてきた思いを手放すことは、「これでもかぁー!」ってくらいにやってきたつもりだったのに、新しいことを始めると、垢みたいにまだまだ出てくる。現実を自分色に磨いていくっていうのは、きっとこれの繰り返しなんだな。
 
 
 
そして「磨くこと」は、一生続けていくものなんだ。 
 
 
「自己中」って一般的には良い言葉に捉えられないけど、最終的に自分の人生をちゃんと歩こうとすると、人は必ず「自己中」になるんだと思う。
 
 
きっと「自己中」には、2つの意味があって。 
 
 
いつの日か読んだ著書『幸せになる勇気』には、自己中の解説があって、「自己中心的な人は、自分が好きだから、自分ばかり見ているのではありません。ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間ない不安に晒されているからこそ、自分にしか関心が向かない。」と書いていて。
 
 
 
 
あぁ、自分だな!って腑に落ちた。
みぞおちにフックをいただきました。 
 
 
 
 
この「こんな自分は愛が受け取る資格はない。傷付きたくないから、自分は愛を素直に表現できない。」と、猛烈にこじらせる『自己中』から、
 
 
『好きだから、する。ありがたいから、受け取る。』っていう、他の誰にもお伺いを立てない、純粋な自分基準で、とってもやさしく、シンプルな世界の「自己中」。
 
 
だから、もし前者が「自己中心的」の略なのであれば、もう一つの自己中は、『自分の人生に夢中\(^o^)/‼︎』の略なんだと思う。
 
 
 
その基準の微調整や塩梅は難しそうに見えても、自分基準じゃないどうでもいいことを、「どうでもいい」と言えるようになってくる。
 
 
そしてこの純度が高まるにつれて、
 
後者の自己中は、誰も傷つけないことがわかるってくる。
 
 
 
 
 
 
 
もっともっと、自分に夢中に。
 
どんどん軽くなっていく。
 
まるで、素敵な世界に吸い込まれていくように。
 

自分の純粋な気持ちに気付くこと

私の太陽化計画

おかんがクリスマス用に買った高いワインを、家に着いた瞬間に開けた。
 

味見しよう!って言い出して、何だかんだ2人で結構飲んだ。おとんにもあげた。半分くらいなくなった。
 
 

外はすっかり雪が積もりました。雪は音を吸収してしまうから、全然音がない。普段は聴き取れないような家電のジージーいってる音か、じぶんの心臓がアルコールでドクドクしてる音、じぶんの目がパチパチ、開くたびにお互いに吸いついては離れるような瞬きする音が、「うるさいなぁ」って思うくらい静か。
 

 

 


 
じぶんの生命活動が、とても健やかに感じられる。

 

 

 

 

 
 
 

私は、ずっと欲しくてやっと手に入れたものを、すぐにあたり前のものだと思ってしまいます。失敗をしないと、その大切さに気が付けない、おバカさんです。

 

その手に入れたものには、私なりの執着心もあって。あんなにがんばって手に入れたものでも、初めて手にしたものは、どうやって大切にしたらいいのかわからないこともある。たまたま手に入ることだってある。
 
 

それが手から離れそうになったとき、その執着心のおかげで、びっくりするくらい、ざわめくことになります。

 

でもね、なんとか手に入れて、当たり前になって、大切なこと忘れて、失敗して、また思い出してってやっていくと、いつしかそれに対して、執着心が取れるターンが来て。

 

そしたらそれが、純粋な気持ちに変わる。

 

それがないと!とか、

 

失いたくない!とか、

 

そういう執着心じゃなくて、純粋に「私は、こうしたいわ。」っていう気持ち。

 

変化球なしの、まっすぐ直球ストレート
 

 

 

その純粋な気持ちになったら、また心は穏やかになっていく。

 

そしたら、気付いたら大切なものが、目の前にちゃんとある。
 

 


 
この星は、やっぱりそういう風にできているみたい。

 

 
 
純粋な気持ちになるまで、磨いて。

どんどん手放していく。

そうやって、欲しいものは手に入るんだなぁ。
 
 
 
 
 

あ。クリスマス用の赤ワイン、おすすめあったら教えてください。

自分と繋がりが切れると、現実が天国から地獄みたいになる。

私の太陽化計画

「愛」から最も離れたところからスタートして、やっと自分自身と繋がれるようになった。
頭の中に静けさ、瞬間を生きられる喜びと、考えるのではなく、ただ感じる。頭ではなく、胸で生きる感覚。何もないのに湧いてくる幸福感。

自分と繋がっていられるって、これ以上素晴らしいことはない。
しかしそれでもまだ、古い考えが自分の中にあって。
「それも全部捨てなさい。もう必要ないでしょ。」って言われてるみたいな日々だった。
 
 
「またあんなことが起きたらどうしよう?」 
 
「こんな状態になったらどうしよう?」 
 
「この恐れや警戒心がなくなったら、私はそのサインにちゃんと気付けるの?」 
 
 


この思考がずっと抜けてなかった。頭の隅に、いつもいた。
そしてその思考が現実に何を生み出すのかを、まざまざと見せつけられてしまった。
自分をコントロールする意志ですら、こんなにもエゴを生むなんてね。。
もう頭の中が休日のファミレスみたいにうるさくなるのは本当にやだわ。

 

 

本当に、天国から地獄みたいだった。

 


やっぱりもう引き寄せの法則とかも、古いのかもね。。
昨日、全部手放した瞬間に、終わりました。

 


あんなん頭の中に置いてても、何の役にも立たんかったわ。( ´ ▽ ` )‼︎
 
 

そして散々揺さぶられたあとに降りてきたのは、
「出し惜しみするのやめなさい。」でした。。 

スタートしてまだちょっとしか経ってませんが、肩に力が入っていた分、早くも内容変更になりそうです。
 
 
自分の心地良いところ、見つかるまで何度でも探していく。
それでも、世界はやさしいから。
ありがとう

本当は、骨の髄まで愛されたいし、惜しみなく愛したい。

私の太陽化計画
始まって早々に、どんなことをブログに書こうかなと思った時に、前みたいにふざけた記事も書きたいなぁと思いつつ、肉付けしたり背伸びして書くと公開後にそれが気になって眠れなくなったりするから嫌で。
 
私にとって「背伸びする」っていうのは、猛烈な精神のアンバランスさを生むんだなと思っています。実際肉体的にも背伸びしても、バランス取るの難しいし。
 
 
 
 
 
できれば普段から四股踏むくらいしっかりと、地に足つけていたい方でして。
 
 
 
 
 
私が始めた、心にまつわること。
もしかしたら、自己啓発系のように見えるかもしれないけど。
だけど、私はそういう本に出てくる、手の届かなそうな、到底アクセスできなさそうな「潜在意識」って言葉があまり好きじゃなくて。
 
 
 
「自分の思い込みが、光を遮っている」ってしきりに書いているのだけど、実際どういうことかというと。
 
 
生まれた時には、すべての人は太陽みたいにめちゃくちゃ輝いていたはずで。ニコッと笑っただけで、どんな空気も800トーンくらい明るくしてしまうような力を持っている存在で。何もしないでも、何もできなくても、完璧な存在で。
 
 
 
それはもう、太陽みたいにまぶしくって・・・!!
 
 
 
ところが大きくなるにつれて、一人ひとりが生まれた環境で生き抜くために、自分の生命を保持するために、人間は目の前の大切なゴハンを食べさせてくれて、自分を守ってくれる人、「愛情」っていう心の栄養をくれる人が持っている思い込み(恐れ)に合わせて、自分を抑えていくようになる。
 
 
 
 
こうすべきだって。
こうしなきゃいけないって。
 
 
 
 
だって、それをすると、目の前の人は喜んでくれないから。
もしかしたら、生きられなくなるかもしれないって本能的に思ってしまうから。
 
やっちゃいけないこと、自分を守ってくれる人が持っている思い込みをコピーするかのように、それに対応するかのように、生きるために必要だと判断した思い込みは光を遮るものとして心に刻んでしまう。これが「光を遮っている状態」。
 
私にとっての過去のタブー項目に苦しんだ姿は、全身ブログにいっぱい書いてあります。笑 
 
 
 
 
でもね、すべての人は本当はもっともっと、爪の先まで、骨の髄まで愛されたくて。
 
 
 
本当は、もっともっともっっっっっと、惜しみなく愛したくて。
 
 
 
 
自分のことも、相手のことも。
息するように。
血を巡らせるように。
当たり前のように。
そう、あの何もかもが無制限な、赤ちゃんの頃みたいに。
 
 
 
大人になった今、自分で好きなところに行けるし、好きなこともできる。
欲しいものだって買える。もちろん、大切な自分を守ってあげることだって。
そんな絶対的な自由を手に入れたのに、私たちは自分以外の誰かの思い込みの世界の中で生きている。
 
 
 
だから、息苦しいと感じてしまう。本当はもっと愛したいのに、自分を表現したいのにって。
でも、この他人の思い込みは、すべての人が成長過程で抱えてしまうことで。
 
  
そして、すべての悩みの根底は、全部ここに在るんだと思っています。
事実、私がそうでした。 
 
 
 
でもその思い込みは、自分で気付けば書き換えられます。
コツを掴めば、一人でもできてしまうから、私はいらないっちゃいらなくてw
 
それでも、なかなか一人じゃ自分の心の状態に気付けなかったり、
全く見当違いなところから始めたりして遠回りしちゃったりする。
わかってるけど抜けられないってなったりする。
 
それでもすべて大切なプロセスだったりするんだけど。
 
 
人生はアートだ。生まれた瞬間から自由制作。
それでも、あなたに抜けられない何かがあるなら、私はそのお手伝いがしたい。
 
 
 
 
自分を表現すること。それ、すなわち「自分を愛すること」
 
自分を表現すること。それ、すなわち、太陽だ❤️
 
 
 
つづく
 

どんなことがあっても、自分を愛する覚悟はあるかい?

私の太陽化計画

やばい、大変だ。久々の、この感覚。 
 
 

それは何一つとして不足のない、家族との時間を味わっている最中に湧いてきた。
ずっとぬるま湯に浸かってるような生活を送っていた私の頭の片隅に湧き出し始めたのは、「これから、どうやって生きていこう?」だった。 
 

 

その問い自体は、「やばいもう人生の選択肢がない!」みたいなネガティブなものではなく、荒削りな、自分っていう輪郭をある程度理解した上での「これ、どうやって活かそう?」みたいな前向きな問い。 
 
 
一度思いっきりぶっ壊れた自分を再建するのに、キャリアめいたものは全てポイして、プライドみたいなのも全部ポイポイして、自分の心が惹かれる方へと不器用に、愚直に・・・いや、そんな潔いものじゃないな。それは、赤いものに反応して突進する闘牛のようかと思いきや、「ここは吟味した方がいい」みたいな変な躊躇もあったりする、その結果「このタイミングで飛び出してくるか!」っていう予測不能な猫みたいな感じで生きていたと思う。 
 

 

30手前にして、一度も正社員になることなく、個人事業主って言ったら聞こえはいいけど、あの時は自分に嘘ついて生きていたから、そんないいもんでもなかった。 
 
 


これからの方向性はだいたい決まっているんだけど、わからなかったのは、これから自分は、何を大切にして生きて行ったらいいのかなっていう、信念的なことで。 

 

 

十数年欲しかった、心の安らぎ、穏やかさ、静けさ。物理的にも心理的にも、「アイム ホーム!」って言えるこの感じ。喉から手が出るほど欲しかったこの感覚を手にしてから、今度は何を軸にしたらいいんだろうかと、考え込んでしまいました。

 

 

そして、考えすぎて、迷子になって、勢い任せで踏み出した一歩で、数日間バランスを崩したのでした。全てがあったこの場所が、気持ちひとつで「ホーム アローン!」的な感じになった。 

 

人間の心って、本当に面白いよ。
 

 

ちょっと話変わるけど、ちょうど5年前くらいに、初めて買った「THE BIG ISSUE」にナタリー・ポートマンのインタビュー記事が載っていて。「どんな私でも両親は愛してくれたから、がんばれたの。」っていうこの文章が、私が「愛」について考えるキッカケになった。 
 

 

「愛ってなんじゃ!」って究明し続けたら、男女間で生まれるラブだけじゃなくて、「そもそも、生きることが愛なんだわ。」っていうところまで行き着いた。「生きるってのは愛情の受け渡しだ」っていうのは、29年間の拙い人生の結論だった。 
 


 
そして、これからを生きる私に足りなかったのって、今問われてるのって、この「愛する覚悟」なんだと思う。 


 

愛する覚悟ってのは、結果がどうであれ、自分を愛し抜くこと。私にはこの覚悟ができてなかった。 
 

 

ずっと受け取れなかった愛を受け取ることに注力していた私は、愛を表現することはあまり得意ではなくて。受け取ることに集中しすぎて、相手が私を好きでいてくれないと、私は相手を好きでいられない、気持ちが変わってしまう、みたいな。 そんな自分を「おのれはなんて弱いんだー!」ってずっと思ってた。 
 


 
つまり、それは誰かを(何かを)愛することよりも、自分の気持ちを表現し続けることよりも、自分が思ってた反応と違った時に「傷付くのがこわい」が上回ってるってことだった。 
 


そしてそれは、「自分の大切な気持ちを表現しない、貫かない」ってことでもあった。 非常にもったいない・・・!!

 

哀しきかな、どうやら人は、幸と不幸のコントラストがないと幸せを実感できない生き物のようで。
それに気づくためにこそ、ぬるま湯に浸ってのぼせた私の第一歩でバナナ踏んずける、みたいなことが起きたんだねぇ。

自分の気持ちを大切にすることは、自分を愛することなんだって、初めて理解できた。 
 
 

このスランプはバナナみたいな柔らかな私の意志を、凍ったバナナくらいに硬くしてくれました。

きっと私は、これからも、たくさんたくさん失敗する。ズタボロになるかもしれない。もしかしたら、また一人になっちゃうかもしれない。
 

 


それでも、私は自分を愛していたい。 
 
 
バナナ、踏んでよかった!
ありがとう!

人生を上手く渡っていく方法は、負の感情を、いかに「自分への愛」に変換できるかだと思う。

私の太陽化計画

人生を上手く渡っていく方法は、負の感情を、いかに「自分への愛」に変換できるかだと思う。 
 

流行りのポジティブシンキングみたいな表面上の変換じゃ根本的な解決にはならなくて、本心がそう思ってなかったら何も意味がなくて。
だからと言って、感情が湧いてしまった現実に反応してそのまま出しても、ただの悪循環にしかならない。 
 
つまりは、その負の感情に真っ向から向き合うってこと。
 

心に溜めた感情は、どうやら自動的に消化されないみたいで。

自動的に消化や分解がされるのは、食べ物とアルコールくらい。

 

だから、感情を押し殺すと、ただの赤だったのが、どんどん黒くなる。
鮮やかな緑だったのが、色褪せる。
ピュアな想いを、自分でどんどん拗らせて、変色させていく。
それぞれ素敵な色だったのに、感情っていうのは放置すると腹の中で腐ってくんだ。記憶とともに。 

 

そして渦巻いていく・・・。 
  

私は去年の春から急に、自分の中だけじゃなく、目の前の人の中にあるその黒い何かも、カラフルな何かも、可視化できるようになってました。
オバケは見えないし見たくないです。 どうやら違う業界らしい。
 
 

その腐ってしまった感情が、結局のところ、嫌なことが続いたり、何度も同じことが起こる原因で。
それに気付くまで「これでもか!」って続いちゃうんだ。
その腹の中の黒い物が、引き寄せてしまってることに気付かずに。
 
 

感情は、良い波に乗れるかどうかの分かれ道だから。
血液と同じく、感情っていうエネルギーを巡らせること。
感情の原型はすべて、愛だから。
向き合ったら、全部ぜんぶ、愛だから。 
 

 

本当はどうしたかったの?って、

じぶんの本当の気持ちを、聞いてあげる。抱きしめてあげる。

そしたら負の感情は愛に変わって、ちゃんと身体を巡る。

綺麗な、サラサラな血液みたいに。
 
 

そしたら、負の感情を湧かせてくれた出来事や相手にすら、「ありがとう」って気持ちが湧いてくるから。

感情に蓋する必要がなくなる。恐くなくなっちゃうんだ。

現実の出来事に、溢れる感情に抵抗しなければしないほど、良い変化はどんどん起こる。 

 


 

蓋をせずに、それさえできるようになれば、悶々とした薄暗かった世界は、一気に明るくなるよ。

 
 
 
 

調子が悪い時は、自分の目の前の現実に感謝できてるかどうかを、確認すればいい。

私の太陽化計画

 

感謝って一番ベージックで、目の前の現実にとらわれると、一番忘れてしまいがちな気持ちだと思ってて。

 

私がヤキモキしている時はだいたい、このベーシックなところが抜けている。

 

今の自分のあり方が、口先だけの感謝がもとにあるのか、ハート♡から溢れ出てる感謝がもとにあるのかを、自分に聞いてあげるといい。

 

そして、今の現実に「ありがとう」って思えないのは、どうしてかを、自分に聞いてあげるといい。

 

現実がうまくいかなくてヤキモキしてる時は、感謝を忘れて、


自分だけの力で現実を作ってると思っているか、誰かのせいで不足が生まれてるって

思ってるかの、どっちかだから。

 

感謝は、特別な出来事がなくても、その気持ちを思い出せば、いつでも心を満たしてくれる、癒しの感情で。

 

それさえ思い出せば、足りないものなんて、なにもないってことに気付けるんだ。

人は心の状態に合わせて、必要なモノを必要な分だけもらってるはずだから。
いつだって必要な時に、必要なモノや人は、必ず向こうから、現れてくれるから。

 

感謝の深さが、視野を広げて、細部にまで意識が届くようにしてくれる。
そして、自分の想いを、私の知らない場所まで、届けてくれるから。

 

それでも、忘れちゃう時は忘れちゃうんだけど。
調子が悪い時は、そうやって、心の中を覗くといい。

 

満たすのは、自分から。
どんな時でも必ず、自分から。

 

世界は、もっと、ずっと、やさしいよ。

 

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 (先月の満月。)

人生の再スタートに怖気ずいたら、一旦『絶望する』といい。

私の太陽化計画

人生の再スタートは、いつ切ってもいいと思ってる。
今30歳だって、40歳だって、80歳のおばあちゃんだって。
誰だって後ろを振り向けば、自分で踏んで消えかかってるスタートラインが、何本もある。

 

でも今、その再スタートがなかなか切れなくて怖気ずいているのなら、

一度、自分に思いっきり絶望するといい。

 

 

どんなに嘆いたって、目の前の現実を作ってるのは、紛れもなく自分なんだ。
スタートに立てないのは、まだ不都合な現実を作った自分の弱さを、受け入れられてないからなんだ。

 


本当に欲しいものに手を伸ばせないことを、誰かのせいにしている自分の弱さ。

 

今まで築き上げてきた周りの評価に、環境に、しがみついてる自分の弱さも。

 

これが自分の価値なんだって、過去にすがりついてる自分の弱さも。


一番見たくなかった自分を、望まない現実を創造した自分を、真正面から。

 

 

 

 

 

嗚呼、自分だった・・・!!( ̄▽ ̄;)って。

 

 

 

 自分を否定するんじゃない。受け入れるんだ。

 

受け入れられないことが、

「こんな現実を作ったのは、自分じゃない」って、まだ自分の中にあるから、

「自分以外の誰かが私の世界を汚したんだ!」って思ってるから、

「誰かがこう言ったから。」って。「本当は私はこうしたかったのに、誰かが・・・。」って。

 

だから現実を自分の力じゃ変えられる気がしないんだよ。未来を自分で作れる確信が起きないんだよ。


自分以外のせいにしてしまう弱さ。希望に手を伸ばすことを、諦めたことも。

自分を止める誰かの言葉を、そのまま鵜呑みにした、自分の弱さを。

私たちは弱いんだ。弱いよ。激弱。

 

 

 

現実を受け入れられない自分は、めっちゃ弱いのに果敢に戦い挑んでくる、ドラクエのスライム以下だよ。

 

 

 

 

でも、それでいいんだよ。

絶望は、全部自分なんだってことを、自分の創造力を、思い出させてくれるから。

 

そしたらもう、過去にも未来にも、生きなくなるから。

 

どんな状況からだって、目の前に自分でスタートライン引けるようになるから。

 

どんな壁にだって、立ち向かう勇気も、湧いてくるから。

 


本当の強さは、絶望の後に、勝手に湧いてくるんだから。

 

 

 


心ゆくまで絶望せよ。

 

世界は、もっと、ずっと、やさしい。

 

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正しさを追求することに疲れたら、『人生なんてアート』だって思えばいい。

私の太陽化計画

人生にがんじがらめになる時は、たいてい「正しさ」が付き纏う。

世間さまとのプロレスで『正しさ四の字固め』喰らってるみたいになる。

 

 

 

 

宇宙兄弟だって、有名アーティストだってその他諸々の人物が言ってた。いつだって、自分に手を差し伸べるように『楽しい方を選べ』って。その言葉が、リングの外に立ってるセコンドがタオルを投げ込んでみたいに、生命ギリギリのラインで飛んでくる。

 

近頃は、リビングで寛いでいる時にも、ビュンビュン飛んでくる。
本屋に行けば、そのタオルを1人ずつ渡せる数が、日本の人口分、余裕である。

 

人生ってなんだ?

絵描きだけが、ミュージシャンだけが、映画監督だけが、クリエイターですって言ってる人だけがアーティストなんじゃない。みんなが、みんなの心を全力で表現するのが人生で。全く同じ話を違う人がしても、同じ人が2回したって、伝わるものはそれぞれ別物で。だとしたら、正しさなんて、絶対的なものなんて、世界には存在しない。少なくとも、そう信じてる人の世界からは消える。単純に、自分の世界に自分自身が好きか嫌いか、なんとも思わないか。それだけが、世界に色をつけるんだよ。

 

本当に、それだけしかない。

 

散々探したけど、それしかなかったんだよ。

 

 

 

どM根性で、戦い続けてもいい。
世間さまとのプロレスで『正しさ四の字固め』掛けてくださいって挑んだのは、自分自身だ。

 

 

でも、人生なんてアートなんだよ。

 

降参しない。屈さない。ただ戦うことをやめて、だまってリングから降りればいい。
そして、自分の好きなところに行けばいいんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人生なんてアートだ。」
散歩中に空から降りてきたように浮かんだ言葉だけど、我ながらナイスな言葉よ。

 

 

【最終回】脱皮を晒すの、今日で止めることにしました。

恥ずかしい皮
 
北海道には、秋がない。
日本の土地は春夏秋冬があるが、この地では夏から冬へのシフトは猛スピードで行われ、季節は、春・夏・準冬・冬って感じだった。生い茂っている植物でさえ、その急な「今日から秋です。」という通達に驚きを隠せず、急ピッチで葉を赤くしているに違いない。ラーメン屋の『冷やし中華始めました』の暖簾も、急ピッチで物置へ。 
北海道はもう初雪が観測され、昨日から我が家はストーブがついております。
関東ではつい先日まで30度を超えていただなんて、同じ国に住んでいるとはとても思えない。
天気予報はあまり当てにならず、外に出るときの格好がわからなくて、重ね着を重ねすぎて着膨れした私は、今年も『季節感のない女』の称号を獲得。
 
 
 
 
 
 
 
今年で3年連続、獲得。
 
 
 

 

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タイトルに書いてあるように、
 
私はこの『私の恥ずかしい脱皮した皮たち』を、今日で終了することにしました。
 
理由は明確で、決して後ろ向きなことではなく、これからの自分のあり方を考えた上で出した答えです。
 
 
その理由を明かす前に、今日はここで、今までの脱皮を少し振り返ることにします。
 
 
 
 
ブログを書き始めてから約7ヶ月。
 
結論からいうと、色々迷いはあったけど、この「私の脱皮した恥ずかしい皮たち」のブログを書いてきて、本当によかった。
晒した皮の数は35枚。ブログの更新数としては決して多くはありません。
でも、私の心が、私の葛藤が、私のくだらない性分が、ギュッと詰まってる。
私の心を、鏡のように見せてくれた。
もうこのブログは、私の分身でもあります。
 
 
泣きながら書いた文章も、結構ある。
本当に公開するか、悩んだ文章だって。
過去のしんどい出来事を「爽快な笑い」に変えられる技術は、どれだけその人が自分の中で整理できたかじゃないかな。
私はその技術にムラがあったから、「オモシロイ皮」も、「まだワラエナイ皮」も、どっちも生まれてしまったんじゃないかと思う。
 
恥ずかしい皮を晒すっていうのは、自分の中で恥が恥じゃなくなった時は書いていて楽しいし、そうじゃないやつは本当に自分との殴り合いのような、痛みを伴う作業でもあった。
 
 
 
 
...私がただ、ドMなだけだったんだけどね!笑
 
 
 
 
 
 
 
私は脱皮の道中で、何度か自分の脱皮した皮を読み返しました。1枚1枚の記事が「本当に自分で書いたの?」と思うようなものから、「お前誰だよwww」とツッコミをいれたくなるものまで、文章の中に入っている私のエネルギーは本当にバラエティ豊かでした。

 

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↑↑脱皮の1枚目は、本当に書いていて気持ち良かった。決して整った文章ではないけれど、『ハゲ万歳!!』と、大声で言いたかった。 FB上でしかシェアしなかったのに、閲覧数が初日にして600以上あって、ちょっとびびった。

 

 

 

ハゲ万歳!!

 

 

 

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私の中ではクソ美人の話が結構好きです。私の中の、黒い私。

ただのちんちくりんが、絶世の美女と同じ土俵に立っちゃうだなんて、笑っちゃう。こんな漫画みたいなこと、私も想像してなかった。結局これを書いたことが本人にバレて、『読んで泣いたよ。』って言われました、良い意味で。そして、あの頃言えなかった気持ちを、改めてお互い晒しあって。

 

猫、本当に大好きだ。

 

 

でも、やっぱり猫が地球に降りて来る前に、その美しいボディに乗り込む瞬間に立ち会った際には、全力で乗船を阻止したい。 

 

 

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↑↑この記事は、少し前までの、閉鎖的なオーディオ業界へのフラストレーションの塊でもあります。気持ち的には中指び立ててたのかもね。別に誰にってわけじゃないけど。書いた後、なんだかすっっっっっごく、スッキリしたのを覚えてる。

 

 

 

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 ↑↑この皮も2度の脱皮でようやく終わりました。

キレイでいることへの疑問がここまで複雑化しているとは。

最近のスキンケアは、おばちゃんが使うような超手抜きの化粧水からクリームまでオールインワンから、全部1つ1つちゃんとしたやつを使うようになりました。笑

 

これからは自分のために、輝いていたい。

 

 

 

 

◇長期に渡った『おかん編』で急にオモシロくなくなったのは、脱皮してないのに脱皮したと偽装(!)したからだと思う。

おかんを通した自分自身との戦いは、結局丸29年かかりました。

「ずっと不幸だったの?」と言われれば、全くそんなことはない!

私が見た世界は、明るくなったり、暗くなったり。ずっと秋の空みたいに慌ただしかっただけ。

ただ、地球の空と違うのは、自分の心の空は、自分の力で、晴れにも雨にも、大吹雪にもできるっていうこと。私はそれを知らなかったんだ。

 

tyouwa-san.hateblo.jp 

↑↑実際に私の戦いが終わったのは、先日の車の記事の時。

これを書いた日はありえんほどの浄化の涙。

肩に乗せた荷物を全部下ろしたような、開放感。

私はこの日が来るのを、ずっとずっと待っていたような気がした。 

 

 

 

『自分の恥を晒すのならば、せめて笑ってもらわなきゃ。』

投稿した脱皮の中には、まだ完全に整理の出来ていなかった母を通じた自分との戦いですらも、【脱皮済み】にアーカイブしてしまっていました。
 
ブログを開設したきっかけは「過ぎたことはすべて、酒のツマミだ。」という兄の言葉がキッカケ。(チャップリンも言ってたな。)
まだ過ぎていないことを晒してしまうのは、私の美学に反することでもありました。
 
 
脱皮とも言えない、ただの『甘皮剥けました』くらいの話を
何度もなんども投稿してしまって・・・
 
 
 先に謝っておきます。
 
申し訳ありませんですた。ごめんなはい。
 
 
 
 
 

◇どうやら文章にはエネルギーが宿る。

文章は極論、気持ち良い文章か、気持ち悪い文章かのどっちかしかないと思う。
読んでいて爽快感のない、プライベートでデリケートな内容は、あまり気持ちのよいものではない。
それは、書いている人のエネルギーが文章に宿るからだと思う。
 
怒り、悲しみ、苦しみ、喜び・・・書いている最中には、その当時の、脱皮した時の(する前の)、いろんな感情が、胸の奥でザワザワする。それはもうとても生々しく。そしてその人のエネルギーがそのまま生き写しのように文章に宿る。
 
言葉のチョイス然り、文体、喩え・・・総じてそれが、その人が醸し出す雰囲気とか、その人が纏っている空気みたいなものが、そのまま言葉に乗っかってしまう。
 
直接会って話さなくても、電話じゃなくても、直筆の手紙じゃなくても、このWEB上のデジタルの文章でさえ、こんなにも、言葉の裏側(エネルギー)は、かならず伝わる。
 
あたたかさも、かがやきも、つよさも、よわさだって。
 
まるで生きてるみたいに。
 
ほんとうの心は、いつもハダカで、
 
どんなに自分を取り繕っても、上手く書こうとしても、読んでる人をごまかせなかった。
 
 
「言葉」は私が思っていた以上に、おしゃべりだった。
 
 
 
 
  
 

◇これから私はどうするの?

 
私のラスボス級の登竜門を突破してから、最近は「世界は、こんなにも平和だったのか。」とめちゃくちゃ拍子抜けしてます。
 
荒れているのは、自分の内側だけで、外の世界はこんなにも穏やかだったなんて、、、。
 
そして、なんとも言えない幸福感。宙に浮いているような、包まれているような、満たされる感覚。「あぁ、愛されてるなぁ。」とただただ感激し続ける毎日。何をしていても幸せで、ほんとにこの1ヶ月くらい、何も手がつきませんでした。
ここ数日前まではそんな気持ち。
 
後ろを振り返ると、「なぜあんなことが起きたんだろう?」っていうたくさんの理不尽な出来事にも、それぞれにちゃんとした、素敵な理由が見つかりました。
心のしくみも、世の中のしくみも、たくさんの本を読み漁ったけど、思った以上にシンプルだった。複雑にしているのは、自分だったんだね。
私は『幸せになるために生まれてきたんだな』と、『いつだって愛されていたんだな』ということにやっと気付けました。自然と『ありがとう』が湧いてくる。そんな感じです。
 
 
今まで読んでくれていた方も、応援してくれていた方も、通りすがりの方も、本当にありがとうございました。
 
「脱皮した皮たち」のおかげで、ここまで自分を解放することができました。
 
今後恥を晒すのをやめたとしても、きっとこれからも脱皮の連続の人生だと思います。
だけど、いまはこれだけ幸福感に包まれているということ、そして、「ぜんぶいいじゃん。」って自分のすべてを肯定できるようになってしまったため、脱皮のネタがもう見つかりません。笑
それが脱皮ブログをやめる理由の1つ目。
 
 
もう1つの理由。
人間は、SとMに分けられるっていうけど、「極論、Sは構ってほしいから攻撃するという究極のドM」説が本当ならば、世の中の9割以上の人がMで。笑 つまり、それは『自分をいじめる人』。今までの私のことです。
 
じゃああとの1割はというと、『自分にやさしい人』だなって思いました。
そしてそういう人は、何もしてなくても、輝いていられる。
 
もし、自分に痛みを与えても、誰かのためにと貢献しても、本人が心から幸せにならないのであれば、それは自分のエネルギーの使い方が間違っているかもしれない。
 
自分のエネルギーを上手に循環させることができれば、その幸福感は自然と伝染して、広がっていくんだと思う。それが、自分にやさしい人だと思う。
 
そしてそれが、本来の姿なんだと思う。
 
 
 
だから、私は決めました。
私はこれから、自分をいじめる人をやめて、
『世界一自分にやさしい人』になります。
 
脱皮のネタの代わりに、今度は自分の取り戻し方をシェアしたいんです。
私はありえんほど遠回りしたけど、いままでのことを整理すると、
 
自分にやさしくすること。
自分から手を離さないこと。
自分の感情を上手に扱うこと。
不安や恐れではなく、愛から行動すること。
自分の観念に、気付くこと。
 
この本当の意味さえちゃんと理解できれば、
人は必ず、自分を取り戻すことができると思う。
 
 
すべては自分次第。
すべては、自分から始まる。
そして、それは、世界に広がる。
 
地球を救う、お手伝いを。
1人1人が輝けるように。
 
本来の自分を、思い出せるように。 
 
 
 
これからは、今まで得た経験や知識をフル活用して、セッションもやって行く予定です。
そして、ブログのタイトルは『私の太陽化計画(仮)』に変えてリニューアルします笑
 
 
 
どうぞお楽しみに。
それでは、またその日がくるまで。
 
 
いままで、読んでくれて、ありがとう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あでゅー