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だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

『ともえちゃんには、なんにもできない。』

※この作品を、大きくなったともえちゃんに捧げます。

 

 

 

ともえちゃんは、この街に住むとってもとっても元気な子。今年で8さいになるんだって。きょうも学校が終わったあと、ともえちゃんはいつもお友達に囲まれて、誰よりもたのしそうに遊んでいました。

 

いつもはとっても明るいともえちゃんですが、実はともえちゃんには、他の人よりこわーいものがありました。知らない人と会うときには、それはもう警戒心丸出し。いつもいつも知らない人を見るときには「いーだ!」と言って、こわーい顔をしたりしていました。

 

そして、お外では明るいともえちゃんは、おうちではずーっと一人ぼっちでした。パパとママが働いていて、やらなきゃいけないことがたくさんありました。お皿を洗ったり、お掃除したり、飼っている鶏の世話をしたり・・・。ともえちゃんはみんなと遊んでいるほんの少しの時間以外はいつもひとりで過ごしていました。ひとりになることも、こわいものの1つでした。

 

 

「さみしいなぁ・・・。」

 

 

ともえちゃんはいつの間にかどこか胸の辺りにぽっかり穴があいてしまって、気付けばそこに、うずくまるように「寂しい」っていう気持ちが入り込んでしまいました。

 

 

ある日のこと。

ともえちゃんはお友達のえみちゃんやまりかちゃんがいつも大切に両手で持ち歩いてるピンク色の「愛」に目が留まりました。あったかそうで、ふわふわで。その「愛」の形は、ともえちゃんの胸に空いている穴と同じ形で、それをすっぽりと覆うことができるほどの大きさのものでした。

 

ともえちゃんは、そのみんなが大切にしている「愛」が欲しいと思いました。ともえちゃんは「愛」をもらうためならなんだってする!と、意気込んで、思いついたことをかたっぱしから一生懸命がんばることにしました。

 

 

そして、ともえちゃんは空に向かってこう叫びました。

 

「ちゃーんとがんばったら、ともえにも愛をちょうだいね、神サマ!」

 

 

 

◎知ってる

ともえちゃんはたくさんたくさん勉強しました。

ともえちゃんは、もうなんでも知っていました。だーれも知らないことでも知っていました。自分が知らないって思うこと以外は全部ぜーんぶ知っていました。

 

そんなにたくさんのことを知っているともえちゃんは、神サマにご褒美をねだりました。

「ねえ神サマ、ちゃーんとがんばったから、ともえにとびっきりの愛をちょうだい!」

 

神サマ

「うーん、それじゃあ愛はあげられないよ。」

 

 

 

◎できる

ともえちゃんはたくさんたくさん練習しました。

ともえちゃんは、もうなんでもできるようになりました。だーれもできないことまでできました。自分がしたことないって思うこと以外は全部ぜーんぶできました。

 

そんなにたくさんのことができるともえちゃんは、神サマにご褒美をねだりました。

「ねえ神サマ、ちゃーんとがんばったから、ともえにとびっきりの愛をちょうだい!」

 

神サマ

「うーん、それじゃあ愛はあげられないよ。」

 

 

 

◎わかる

ともえちゃんはたくさんたくさん人の話を聞きました。

ともえちゃんは、もう人のことはなんでもわかりました。だーれにもわからないことまでわかりました。自分がわからないって思うこと以外は全部ぜーんぶわかりました。

 

そんなにたくさんのことがわかるともえちゃんは、神サマにご褒美をねだりました。

「ねえ神サマ、ちゃーんとがんばったから、ともえにとびっきりの愛をちょうだい!」

 

神サマ

「うーん、それじゃあ愛はあげられないよ。」

 

 

 

◎してあげる

ともえちゃんはなんでもしてあげました。

ともえちゃんは、困ってそうな人に、もうなんでもかんでもしてあげました。だーれもしたくないことまでしてあげました。自分がしてあげたことないって思うこと以外は全部ぜーんぶしてあげました。

 

そんなにたくさんのことをしてあげられるともえちゃんは、神サマにご褒美をねだりました。

「ねえ神サマ、ちゃーんとがんばったから、ともえにとびっきりの愛をちょうだい!」

 

神サマ

「うーん、それじゃあ愛はあげられないよ。」

 

 

 

ともえちゃんは困ってしまいました。

どうして私はこんなに頑張ってるのに、みんなが持ってる「愛」は私だけもらえないの?どうして私は、みんなみたいに、ニコニコしあわせになれないの?

 

 

 

 

神サマ

「あのね、ともえちゃん。できてもできなくても、知っていても知らなくても、わかってもわからなくても、してあげてもしてあげなくても、どっちでもいいことなんだよ。」

 

 

ともえ「どういうこと???」

 

 

神サマ

「ともえちゃんが本当に「したい」「やりたい」って心の底から思ったことじゃないと「愛」はもらえないんだ。」

 

 

「どうして?ともえはみんなが喜ぶことしてあげたい!だからしてるのに・・・。」

 

 

神サマ

「ともえちゃんはそもそも勘違いをしているんだ。厳密に言うと、「愛」は誰かからもらうものじゃない。本当にしたいことをしているとき、それだけで君のココロから「愛」がどんどん溢れてくるんだよ。

 

 

 

知りたい。

できるようになりたい。

わかりたい。

してあげたい。

 

したいから、する。

 

ただ、それだけさ。

 

 

君はみんなが喜ぶことをしているとき、ココロに愛は溢れているかい?

 

 

「・・・。」

 

 

神サマ「愛の泉はココロの中にある。君が大好きなことをしているとき、愛に溢れているあのステキな感覚は、きっと覚えているだろう?もう少し練習してごらん。なんてったって、君はなんでもできるんだからね!」

 

 

 

ともえちゃんは考え込んでしまいました。

 

「わたしが本当にしたいこと・・・?

 

わたしが大好きなこと・・・?

 

愛が溢れること・・・?

 

なんだろう??

 

あ・・・!!」

 

 

ともえちゃんはずっとずっと行きたかった隣町にある海へ向けて走りました。

ともえちゃんは海がとっても大好きだったのです。

そして、到着してすぐに、ともえちゃんはたくさんの魚やイルカと一緒に泳ぎ始めました。

ぐるぐる回ったり、パシャパシャ跳ねたり、海辺を走ったり。

 

カラフルな世界。キラキラな世界。

 

初めて見る生き物とも、たくさんたくさん出会いました。

 

 

「たのしい!!本当にしたいってこんなにステキ!!」

 

 

ともえちゃんは、どんどん幸せな気分になりました。

すると、遠くから、ともえちゃんが大好きなお友達がたくさん駆け寄ってきました。

 

そしてたくさんたくさん、みんなと遊びました。そして、いつの間にか、すっかり心に空いた穴に入った「寂しい」気持ちはすっとんでいって、たくさんたくさんの「愛」が溢れて、みんなも幸せな気持ちになりました。

 

 

ともえ「なぁーんだ!なんにもできなくったっていいんだ!!」

 

 

それからともえちゃんは、ココロに溢れる「愛」をどんどんみんなに分けてあげて、「本当にしたいことをする」のがだれよりも上手になりました。

 

 

 

それからともえちゃんの周りから、キラキラな世界、カラフルな世界が、どんどん、どんどん、ずっとずっと遠くまで、広がっていきました。

 

 

 

 

おしまい。

ヌード写真を公開したことによって起きた内側の胸騒ぎ。

私が見てる真っ赤な太陽は、日本中のどこにいても、真っ赤に見えるのだろうか。

 

高速バスに3時間揺られている道中、窓越しに見えた沈みかけた太陽は、国旗みたいに意味深な赤だった。手は反射的に鞄の中からカメラを探したけれど、構えたところで、太陽の方向に地蔵のように座ってるおじいちゃんの頭がどうしてもフレームインしてしまうため、私はそれをじっくりと脳裏に焼き付けることにした。(おじいちゃんの後頭部を、じゃないよ。) 到着したのは、道の駅。一面の雪景色とポツリポツリと佇むロッジみたいな一軒家。歩いている人なんていない。聞こえるのは、シャーベット状の雪を踏みしめる自分の足音と、たまに抜き去っていく車だけ。

そして、進む道の先には羊蹄山が聳え立っていた。

 

 

 

 

 

ニセコだ。

 

 

 

 

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先日、私はこのニセコで、雪中ヌード写真を撮影してもらった。

旅のお供をしてくれたカメラマンのちーちゃんが撮影メニューの中に斬新なそれを、新サービスとして加えていた。

 

ちーちゃんが最近そういった写真を撮ってるのも知っていたし、ちーちゃん自身が被写体にもなっていたのも知っていた。私はちーちゃんの裸を見た時に、絶対的な美しさというか、か弱く、女性らしい身体のラインの中に秘められた「強さ」みたいなのを感じて、自分の深いところにグッときたんだ。最終的には、自らが望んで撮影を懇願した。しかも敢えての氷点下の極寒地での撮影を希望した。(ちーちゃん、本当にありがとう…!)

 

正直クレイジーな撮影だったけれど、写真には、普段見ないようにしていた丸みを帯びた緩やかなラインもガッツリと記録されていて、私はその写真に衝撃を受けた。頭の中と現実とのギャップに絶望せざるをえなかった。それでも、そこにいた女子たちは「超いい!」「綺麗!!」「素敵!!!」と言ってくれて、ギリギリ二本足で立ってられるくらいの衝撃を受けていた私も、自分の身体に「燃えろ脂肪!」「収縮しろ筋肉!」と叱咤したり罵声を浴びせることよりも、すぐに圧倒的な「イイね!!」を送る状態になった。

 

 

 

 

 

そしてせっかくだからその写真を、ちーちゃん同様にSNSに公開することにしたんだ。

 

 

 

 

 

公開しても後悔しない?みたいなダジャレみたいなことをしようとしている私。

グラマラスとは到底言えない自分の裸体を晒すことは、正直「誰得?」な行動だけれども、それは賛美の声が聞きたかったわけでもなく、私は何かを越える感覚、その先に素敵なものがあるような気がするみたいな。なんか世界が変わりそうなワクワク感を感じて、2、3日晒すとしても上は隠せてても写り込んだお尻はどうするか悩んだ挙句、お尻を含めてそれをfacebook上に公開した。(申し訳ないがブログには公開せず、facebookの友人のみの公開)

 

多分あの瞬間、何かが終わって、何かが始まったのかもしれない。

 

 

ヌード写真を撮ると、「女性らしさに磨きがかかる」とカメラマンちーちゃんは言ってたけれど、それは確かにそうだと思う。具体的にこうしたいとか、ポージングだとか、身体作りに関することに意識が向く。でも、写真を公開後に起きた内側の変化は、「うっふん♡」というのが口癖の、「妖怪☆振り撒きホルモン!」化するほどの女性性と思いきや(そんな妖怪いるか知らんけど)、ヒゲが群生しそうなくらいに芽生えた、男性性だった。なんか知らないけど「かかってこいや感」が湧いてきたんだ。

 

だけどそれは、「私の中の女が死んだ」というわけではない。

むしろ、過去最高にイキイキとしてる。受け入れる性質の女性性は、今現在私の身体に纏っている怠惰なお肉も、日が沈む方角に傾いた丸い背中も、ヒールを履かなくなったことで緊張感が年中なく、夏は水着も着ることもない。自分を魅せることから退いた日々が凝縮されたこの身体を十分に受け止めたことによって、「かかってこいや感」になったんだと思う。公開してからなぜか、「ふざけんな」とか「舐めんな」とか、頭の中で口の悪いオラオラしているヤツも湧いて出てきた。

 

それはそいつが、私に対して言ってる言葉なんだと思った。

 

 

裸を公開する覚悟。情報リテラシーの重要さが叫ばれる中で、敢えてSNSに晒す。

それはつまり、自分の行動の基準値を上げること。

自分の裸が問題になってしまう世界で、私は生きない!という決意。

私の世界は私が決める!という決意。

それに付随して、「じゃあアレもコレも基準を上げていかないとバランス取れないよね」的なことが日常生活の中で次々と起きる。

 

自分を超える瞬間は結構しんどいし、私は残念ながらそんなに強くはないのでヘコタレそうになったりする。けど、今の私は、過去の自分が、楽しい世界へ連れてってくれる。そんな新しい感じがします。

 

こわいものがなくなった、刀を持った女。

もしかしたらいま、最高に女性性と男性性のバランスが取れているのかもしれない。

 

 

下手な脱皮話を綴るより、よっぽど余計なものを捨てられる新手のヌード撮影。

 

 

オススメです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に。冒頭に戻るけど、私は昨日からニセコにいます。

特にもう裸体で外に出る予定はありませんが、滞在先にお風呂がなく、これから毎日通う温泉の脱衣所には体重計が「ここ乗って乗って!」と言わんばかりに私を待ち構えているのですが、とにかく2㎞先を見るようにしてスルーしています。もし、お風呂でのオススメエクササイズがあれば教えてください。

 

全力で絞ります。

身体の中の、行方知らずのカロリーたち

 

我が家の年末年始の食事は、毎年豪勢だ。

  

「大晦日なんだから。」「お正月なんだから。」という理由で、1年で溜まったフラストレーションの消化と、年始のロケットダッシュ効果を目的とするかのような食材やお酒が、毎日宅配で我が家に届く。足りない細々としたものは大丸へ。いつもなら「我慢しろ」とか「こんなの必要ない。」と言われそうな品々が、次々とカゴの中へダイブしていく。どこにそんな金があるのかと、抑制の効かない消費活動は、そのカゴを持つ私を終始不安にさせた。

 

 

その財布の紐がユルユルになったタイミングで、食事とも年末年始とも関係ないものを、パソコンの前でポチっている母の背中を幾度となく目撃した。人間とは、解放すると歯止めが効かず、ある程度進んだ所で「ハッ!!」と、我にかえるみたいなことがある。普段から倹約家というわけでもなく、かなりのどんぶり勘定でよくそんなに上手くお金を管理できるなと感心しつつも、それにあやかろうと「私も欲しいものが」という言葉がフワフワと浮かんだが、冷静に考えてやめた。見事なロケットダッシュ後に、我が家の家計がまわらなくなり、急失速したら困るからだ。

 

 

 

テーブルを彩るおせちやら、毛蟹やら、すき焼きやらに、数々の母の手料理も追加。その準備が整うにつれ、冷蔵庫の中は料亭の冷蔵庫のように普段見ないものでいっぱいになり、それらの食事はたった3日間で、我が家のレギュラーメンバー(父、母、私)とゲストメンバー(兄、嫁、姪)ですべて平らげられたのである。

 

 

視覚的にも、美しいものばかり。

いや、本当においしかった。胸いっぱい。ごちそうさまでした。

 

 

  

年末年始の母の行動が印象的すぎて出だし話が長くなってしまったが、

問題はその後である。

 

 

 

行方の決まったカロリーはエネルギーというだけあって、目的があれば瞬時に燃料として使われる。

活用すれば、考える力にも、身体を動かす力にもなり、いずれにしろ生産的な生きるパワーに変換されるのに、行方の知れぬカロリーたちは、時間とともに性質を変えて負のエネルギーとして体内をさまよい続け、エネルギーの動きの少ない部位を住処に、ぷにぷにの二の腕や、たるたるのお腹、力強いハムストリング!ではなく、「ハム」みたいな太ももに形を変えていく。

 

 

おいしい食事と、伸び広がった胃は、通常だと満腹中枢の「FULL」というサインが赤く点灯するはずなのに、視神経からのキラキラとした情報が多いからか、嗅覚からのお誘いが止まらないからか、脳からその信号は送られず、物理的に満たすまで一向に食欲は収まらない。

 

 

正月が終わってからも、まるで朝から晩まで動きまくった運動部の中高生みたいに、私はエネルギーを欲している身体に入るだけ高カロリーなものを流し込んだ。

 

 

豊満な、重くて邪魔な、場合によってはかわいらしくも非生産的な身体は、こうやって作られるのかと、ふと当たり前のことが頭を過る。

 

 

 

 

 

 

 

 つまり、今日は何が言いたいかというと、

 

 

 

 

ただ「太っちゃったよ!」ってこと。

 

人生の再スタートに怖気ずいたら、一旦『絶望する』といい。

人生の再スタートは、いつ切ってもいいと思ってる。
今30歳だって、40歳だって、80歳のおばあちゃんだって。
誰だって後ろを振り向けば、自分で踏んで消えかかってるスタートラインが、何本もある。

 

でも今、その再スタートがなかなか切れなくて怖気ずいているのなら、

一度、自分に思いっきり絶望するといい。

 

 

どんなに嘆いたって、目の前の現実を作ってるのは、紛れもなく自分なんだ。
スタートに立てないのは、まだ不都合な現実を作った自分の弱さを、受け入れられてないからなんだ。

 


本当に欲しいものに手を伸ばせないことを、誰かのせいにしている自分の弱さ。

 

今まで築き上げてきた周りの評価に、環境に、しがみついてる自分の弱さも。

 

これが自分の価値なんだって、過去にすがりついてる自分の弱さも。


一番見たくなかった自分を、望まない現実を創造した自分を、真正面から。

 

 

 

 

 

嗚呼、自分だった・・・!!( ̄▽ ̄;)って。

 

 

 

 自分を否定するんじゃない。受け入れるんだ。

 

受け入れられないことが、

「こんな現実を作ったのは、自分じゃない」って、まだ自分の中にあるから、

「自分以外の誰かが私の世界を汚したんだ!」って思ってるから、

「誰かがこう言ったから。」って。「本当は私はこうしたかったのに、誰かが・・・。」って。

 

だから現実を自分の力じゃ変えられる気がしないんだよ。未来を自分で作れる確信が起きないんだよ。


自分以外のせいにしてしまう弱さ。希望に手を伸ばすことを、諦めたことも。

自分を止める誰かの言葉を、そのまま鵜呑みにした、自分の弱さを。

私たちは弱いんだ。弱いよ。激弱。

 

 

 

現実を受け入れられない自分は、めっちゃ弱いのに果敢に戦い挑んでくる、ドラクエのスライム以下だよ。

 

 

 

 

でも、それでいいんだよ。

絶望は、全部自分なんだってことを、自分の創造力を、思い出させてくれるから。

 

そしたらもう、過去にも未来にも、生きなくなるから。

 

どんな状況からだって、目の前に自分でスタートライン引けるようになるから。

 

どんな壁にだって、立ち向かう勇気も、湧いてくるから。

 


本当の強さは、絶望の後に、勝手に湧いてくるんだから。

 

 

 


心ゆくまで絶望せよ。

 

世界は、もっと、ずっと、やさしい。

 

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正しさを追求することに疲れたら、『人生なんてアート』だって思えばいい。

人生にがんじがらめになる時は、たいてい「正しさ」が付き纏う。

世間さまとのプロレスで『正しさ四の字固め』喰らってるみたいになる。

 

 

 

 

宇宙兄弟だって、有名アーティストだってその他諸々の人物が言ってた。いつだって、自分に手を差し伸べるように『楽しい方を選べ』って。その言葉が、リングの外に立ってるセコンドがタオルを投げ込んでみたいに、生命ギリギリのラインで飛んでくる。

 

近頃は、リビングで寛いでいる時にも、ビュンビュン飛んでくる。
本屋に行けば、そのタオルを1人ずつ渡せる数が、日本の人口分、余裕である。

 

人生ってなんだ?

絵描きだけが、ミュージシャンだけが、映画監督だけが、クリエイターですって言ってる人だけがアーティストなんじゃない。みんなが、みんなの心を全力で表現するのが人生で。全く同じ話を違う人がしても、同じ人が2回したって、伝わるものはそれぞれ別物で。だとしたら、正しさなんて、絶対的なものなんて、世界には存在しない。少なくとも、そう信じてる人の世界からは消える。単純に、自分の世界に自分自身が好きか嫌いか、なんとも思わないか。それだけが、世界に色をつけるんだよ。

 

本当に、それだけしかない。

 

散々探したけど、それしかなかったんだよ。

 

 

 

どM根性で、戦い続けてもいい。
世間さまとのプロレスで『正しさ四の字固め』掛けてくださいって挑んだのは、自分自身だ。

 

 

でも、人生なんてアートなんだよ。

 

降参しない。屈さない。ただ戦うことをやめて、だまってリングから降りればいい。
そして、自分の好きなところに行けばいいんだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人生なんてアートだ。」
散歩中に空から降りてきたように浮かんだ言葉だけど、我ながらナイスな言葉よ。

 

 

【最終回】脱皮を晒すの、今日で止めることにしました。

 
北海道には、秋がない。
日本の土地は春夏秋冬があるが、この地では夏から冬へのシフトは猛スピードで行われ、季節は、春・夏・準冬・冬って感じだった。生い茂っている植物でさえ、その急な「今日から秋です。」という通達に驚きを隠せず、急ピッチで葉を赤くしているに違いない。ラーメン屋の『冷やし中華始めました』の暖簾も、急ピッチで物置へ。 
北海道はもう初雪が観測され、昨日から我が家はストーブがついております。
関東ではつい先日まで30度を超えていただなんて、同じ国に住んでいるとはとても思えない。
天気予報はあまり当てにならず、外に出るときの格好がわからなくて、重ね着を重ねすぎて着膨れした私は、今年も『季節感のない女』の称号を獲得。
 
 
 
 
 
 
 
今年で3年連続、獲得。
 
 
 

 

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タイトルに書いてあるように、
 
私はこの『私の恥ずかしい脱皮した皮たち』を、今日で終了することにしました。
 
理由は明確で、決して後ろ向きなことではなく、これからの自分のあり方を考えた上で出した答えです。
 
 
その理由を明かす前に、今日はここで、今までの脱皮を少し振り返ることにします。
 
 
 
 
ブログを書き始めてから約7ヶ月。
 
結論からいうと、色々迷いはあったけど、この「私の脱皮した恥ずかしい皮たち」のブログを書いてきて、本当によかった。
晒した皮の数は35枚。ブログの更新数としては決して多くはありません。
でも、私の心が、私の葛藤が、私のくだらない性分が、ギュッと詰まってる。
私の心を、鏡のように見せてくれた。
もうこのブログは、私の分身でもあります。
 
 
泣きながら書いた文章も、結構ある。
本当に公開するか、悩んだ文章だって。
過去のしんどい出来事を「爽快な笑い」に変えられる技術は、どれだけその人が自分の中で整理できたかじゃないかな。
私はその技術にムラがあったから、「オモシロイ皮」も、「まだワラエナイ皮」も、どっちも生まれてしまったんじゃないかと思う。
 
恥ずかしい皮を晒すっていうのは、自分の中で恥が恥じゃなくなった時は書いていて楽しいし、そうじゃないやつは本当に自分との殴り合いのような、痛みを伴う作業でもあった。
 
 
 
 
...私がただ、ドMなだけだったんだけどね!笑
 
 
 
 
 
 
 
私は脱皮の道中で、何度か自分の脱皮した皮を読み返しました。1枚1枚の記事が「本当に自分で書いたの?」と思うようなものから、「お前誰だよwww」とツッコミをいれたくなるものまで、文章の中に入っている私のエネルギーは本当にバラエティ豊かでした。

 

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↑↑脱皮の1枚目は、本当に書いていて気持ち良かった。決して整った文章ではないけれど、『ハゲ万歳!!』と、大声で言いたかった。 FB上でしかシェアしなかったのに、閲覧数が初日にして600以上あって、ちょっとびびった。

 

 

 

ハゲ万歳!!

 

 

 

tyouwa-san.hateblo.jp

私の中ではクソ美人の話が結構好きです。私の中の、黒い私。

ただのちんちくりんが、絶世の美女と同じ土俵に立っちゃうだなんて、笑っちゃう。こんな漫画みたいなこと、私も想像してなかった。結局これを書いたことが本人にバレて、『読んで泣いたよ。』って言われました、良い意味で。そして、あの頃言えなかった気持ちを、改めてお互い晒しあって。

 

猫、本当に大好きだ。

 

 

でも、やっぱり猫が地球に降りて来る前に、その美しいボディに乗り込む瞬間に立ち会った際には、全力で乗船を阻止したい。 

 

 

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↑↑この記事は、少し前までの、閉鎖的なオーディオ業界へのフラストレーションの塊でもあります。気持ち的には中指び立ててたのかもね。別に誰にってわけじゃないけど。書いた後、なんだかすっっっっっごく、スッキリしたのを覚えてる。

 

 

 

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 ↑↑この皮も2度の脱皮でようやく終わりました。

キレイでいることへの疑問がここまで複雑化しているとは。

最近のスキンケアは、おばちゃんが使うような超手抜きの化粧水からクリームまでオールインワンから、全部1つ1つちゃんとしたやつを使うようになりました。笑

 

これからは自分のために、輝いていたい。

 

 

 

 

◇長期に渡った『おかん編』で急にオモシロくなくなったのは、脱皮してないのに脱皮したと偽装(!)したからだと思う。

おかんを通した自分自身との戦いは、結局丸29年かかりました。

「ずっと不幸だったの?」と言われれば、全くそんなことはない!

私が見た世界は、明るくなったり、暗くなったり。ずっと秋の空みたいに慌ただしかっただけ。

ただ、地球の空と違うのは、自分の心の空は、自分の力で、晴れにも雨にも、大吹雪にもできるっていうこと。私はそれを知らなかったんだ。

 

tyouwa-san.hateblo.jp 

↑↑実際に私の戦いが終わったのは、先日の車の記事の時。

これを書いた日はありえんほどの浄化の涙。

肩に乗せた荷物を全部下ろしたような、開放感。

私はこの日が来るのを、ずっとずっと待っていたような気がした。 

 

 

 

『自分の恥を晒すのならば、せめて笑ってもらわなきゃ。』

投稿した脱皮の中には、まだ完全に整理の出来ていなかった母を通じた自分との戦いですらも、【脱皮済み】にアーカイブしてしまっていました。
 
ブログを開設したきっかけは「過ぎたことはすべて、酒のツマミだ。」という兄の言葉がキッカケ。(チャップリンも言ってたな。)
まだ過ぎていないことを晒してしまうのは、私の美学に反することでもありました。
 
 
脱皮とも言えない、ただの『甘皮剥けました』くらいの話を
何度もなんども投稿してしまって・・・
 
 
 先に謝っておきます。
 
申し訳ありませんですた。ごめんなはい。
 
 
 
 
 

◇どうやら文章にはエネルギーが宿る。

文章は極論、気持ち良い文章か、気持ち悪い文章かのどっちかしかないと思う。
読んでいて爽快感のない、プライベートでデリケートな内容は、あまり気持ちのよいものではない。
それは、書いている人のエネルギーが文章に宿るからだと思う。
 
怒り、悲しみ、苦しみ、喜び・・・書いている最中には、その当時の、脱皮した時の(する前の)、いろんな感情が、胸の奥でザワザワする。それはもうとても生々しく。そしてその人のエネルギーがそのまま生き写しのように文章に宿る。
 
言葉のチョイス然り、文体、喩え・・・総じてそれが、その人が醸し出す雰囲気とか、その人が纏っている空気みたいなものが、そのまま言葉に乗っかってしまう。
 
直接会って話さなくても、電話じゃなくても、直筆の手紙じゃなくても、このWEB上のデジタルの文章でさえ、こんなにも、言葉の裏側(エネルギー)は、かならず伝わる。
 
あたたかさも、かがやきも、つよさも、よわさだって。
 
まるで生きてるみたいに。
 
ほんとうの心は、いつもハダカで、
 
どんなに自分を取り繕っても、上手く書こうとしても、読んでる人をごまかせなかった。
 
 
「言葉」は私が思っていた以上に、おしゃべりだった。
 
 
 
 
  
 

◇これから私はどうするの?

 
私のラスボス級の登竜門を突破してから、最近は「世界は、こんなにも平和だったのか。」とめちゃくちゃ拍子抜けしてます。
 
荒れているのは、自分の内側だけで、外の世界はこんなにも穏やかだったなんて、、、。
 
そして、なんとも言えない幸福感。宙に浮いているような、包まれているような、満たされる感覚。「あぁ、愛されてるなぁ。」とただただ感激し続ける毎日。何をしていても幸せで、ほんとにこの1ヶ月くらい、何も手がつきませんでした。
ここ数日前まではそんな気持ち。
 
後ろを振り返ると、「なぜあんなことが起きたんだろう?」っていうたくさんの理不尽な出来事にも、それぞれにちゃんとした、素敵な理由が見つかりました。
心のしくみも、世の中のしくみも、たくさんの本を読み漁ったけど、思った以上にシンプルだった。複雑にしているのは、自分だったんだね。
私は『幸せになるために生まれてきたんだな』と、『いつだって愛されていたんだな』ということにやっと気付けました。自然と『ありがとう』が湧いてくる。そんな感じです。
 
 
今まで読んでくれていた方も、応援してくれていた方も、通りすがりの方も、本当にありがとうございました。
 
「脱皮した皮たち」のおかげで、ここまで自分を解放することができました。
 
今後恥を晒すのをやめたとしても、きっとこれからも脱皮の連続の人生だと思います。
だけど、いまはこれだけ幸福感に包まれているということ、そして、「ぜんぶいいじゃん。」って自分のすべてを肯定できるようになってしまったため、脱皮のネタがもう見つかりません。笑
それが脱皮ブログをやめる理由の1つ目。
 
 
もう1つの理由。
人間は、SとMに分けられるっていうけど、「極論、Sは構ってほしいから攻撃するという究極のドM」説が本当ならば、世の中の9割以上の人がMで。笑 つまり、それは『自分をいじめる人』。今までの私のことです。
 
じゃああとの1割はというと、『自分にやさしい人』だなって思いました。
そしてそういう人は、何もしてなくても、輝いていられる。
 
もし、自分に痛みを与えても、誰かのためにと貢献しても、本人が心から幸せにならないのであれば、それは自分のエネルギーの使い方が間違っているかもしれない。
 
自分のエネルギーを上手に循環させることができれば、その幸福感は自然と伝染して、広がっていくんだと思う。それが、自分にやさしい人だと思う。
 
そしてそれが、本来の姿なんだと思う。
 
 
 
だから、私は決めました。
私はこれから、自分をいじめる人をやめて、
『世界一自分にやさしい人』になります。
 
脱皮のネタの代わりに、今度は自分の取り戻し方をシェアしたいんです。
私はありえんほど遠回りしたけど、いままでのことを整理すると、
 
自分にやさしくすること。
自分から手を離さないこと。
自分の感情を上手に扱うこと。
不安や恐れではなく、愛から行動すること。
自分の観念に、気付くこと。
 
この本当の意味さえちゃんと理解できれば、
人は必ず、自分を取り戻すことができると思う。
 
 
すべては自分次第。
すべては、自分から始まる。
そして、それは、世界に広がる。
 
地球を救う、お手伝いを。
1人1人が輝けるように。
 
本来の自分を、思い出せるように。 
 
 
 
これからは、今まで得た経験や知識をフル活用して、セッションもやって行く予定です。
そして、ブログのタイトルは『私の太陽化計画(仮)』に変えてリニューアルします笑
 
 
 
どうぞお楽しみに。
それでは、またその日がくるまで。
 
 
いままで、読んでくれて、ありがとう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
あでゅー

【これからママになる人、ママな人。そしてパパへ。】

私はもったいないことに、人生のほとんどを、知らぬうちに被害者として生きてしまってました。

 

『自分が幸せかどうかは、他人次第』という負のループは、実は自分自身が作ったものなんだと気付くのに、随分と時間がかかってしまった。そして、もしかしたら今でも尚、その負のループの中にいる人もいるかもしれません。負のループの中に自分がいるということに、まだ気付いていない人も。

 

私が血眼でこの負のループから必ず抜け出すと決心したその理由は、自分がこのループを止めないと、私はいつか迎えるであろう我が子に、きっと同じ思いをさせてしまうと思ったからです。

 

 

きっと誰もが、「こんな親にはならない。」「この教えはよかった。」「こんなところを尊敬している。」「自分の子にこんな風にはなってほしくない。」「こんな人間になってほしい。」と、親子関係に対して、いろんなことを思っていると思います。

 

希望も不安も、きっとたくさん抱えてる。

 

 

私も暗い道の道中に、たくさんの母の嫌なところ、マネしたいこと、マネはしたくないところ、たくさんありました。その全部を否定していた時期もあります。

 

いま目の前にいる愛する自分の子が、もしこれから何十年先までも自分で自分を苦しめる人生を、辛い人生を送るとしたら、きっとゾッとすると思います。そしてなにより、そんなこと誰一人として望んではいないと思います。

 

これだけ遠回りした私が、これからママになる人、ママな人に1つだけ伝えたいこと。そして、もちろんパパにも。

 

「すべては自分次第」「人は幸せに気付くために生きている」
人はシンプルな言葉ほど、こんな簡単なことほど、理解するのが難しいです。
そしてその意味をちゃんと教えてあげるのも、きっと難しい。

 

もし、あなたが自分の子供に、「心から幸せな人生を歩んで欲しい。」と願うなら。もし、「自分の幸せを、自分で掴める人になってほしい。」と願うなら。あなたが1つだけできることがあります。

 

 

 

 

それは、親のあなたが、まず『自分で自分を幸せにできるあなた』であってください。

 

じぶんの幸せに、妥協しないでください。

 

親としてではなく、あなた個人としても。

 

たとえどんなに恵まれていようとも、あなた一個人として満たされないあなたの心が、子供にとって一番の悲しみであり、辛いこと。

 

あなたの満たされていない心のまま「子供がいれば幸せ。」だなんて、そんな子供に重荷を乗せないでください。

 

子供に幸せに生きて欲しいなら、自分の幸せを我慢するんじゃなくて、一緒に幸せになる道を、諦めずに探してください。

 

あなたがかけている自分自身への制限は、そのまま子供が鏡のように受け継いで、あなたのその思い込みをそのままコピーして目の前で見せてくれます。

 

なんの制限のない世界からやってきた子供に、あなた自らが抱えた恐れや不安を、どうか植えつけないで。

 

 

 

 

でもね、もし、うまくできなくても大丈夫。

 

子供は、そんなあなたを救いに来たんだと思うから。

 

だから、あなたのところを選んできたんだと思うから。

 

 

29歳の私がいうのもなんですがw

 

子供と一緒に、幸せな未来を。

世界の平和は、あなたから始まるよ。

 

許した瞬間に、幸せになれた。

おかんが車を買ってからしばらく経った今も、喜びの余韻に浸っております(*^^*)

焦りも、不安も、悲しみもなく、本当にただただ空間に浮かんでいるような、心の穏やかさ。満たされている感覚。

 

だけど「あんたも幸せになっていいよ」って、別におかんはそんなこと一言も言葉にしてないから、結局は自分で勝手に許しただけなんだけど。

 

結局「幸せ」は自分の「外」にはなくて、「自分の中」にあるものなんだってことがわかりました。

 

本当に、二十数年間、この解放感をずっとずっと、ずーっと待ち望んでいた気がします。

 

私の中の本当の私が「しあわせになりたい!」って言っても、私は「あかん!!」「なりたいの!」「絶ッ対ダメッ!!」と、何度もなんども、ひとり押し問答。そして最後は純粋な心の声に蓋をしてきました。

 

悲しくもないのに溢れてくる涙も、生理前に感情的になった時に溢れてくる涙も、押し込まれて悲しんでいる本当の私の涙だったんだ。

 

「どうやったら幸せになれるの?」と、何年もかけて脳みそ使ってショート寸前になるまで考えてきましたが出てきた答えはどれも「脳みそで考えた結果」でしかなくて、試しても試しても満たされず、それが考えることの限界値でもありました。

 

私は、ずっとずっと、外に原因があって、外に幸せがあると思って手を伸ばしていたから。

 

幸せになるには、心の声を聞いてあげること。
ただそれでけで、こんなにも心は満たされる。
こんなに近くに、私のほしいものがあった。

 

全部ぜんぶ、自分次第なんだ。

 

それをもっと、たくさんの人に知ってもらいたい。

 

みんなに分けたい。

 

あー、しあわせ。笑

おかんが自分自身に買った、人生で1番大きいお買物

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今日、おかんがワーゲン買いました!

 

60歳にして、初めての外車!たくさん試乗して、はじめはトヨタのAQUAか、MAZDADEMIOかのコスパ重視で悩んでいたけど、なんだかカタログ見てるおかんがテンション上がっておらず、全然ワクワクしていなかったので『(こりゃあかん…!( ゚д゚))せっかくだから、外車も試乗しまくろうよ!!』と全く視野に入れてなかった外車も提案して、やっと目に止まったのがフォルクスワーゲン

 

おかんはワーゲンのポロに乗った途端に目を輝かせて、「いい!!!いいわこれ…!!(≧∇≦)」と、テンションぶち上がり!それでも最初は、「でも他の候補に比べて割高だし…」「ハイオク仕様だし…」「維持費も大変だし…」「外車は故障が多いみたいだし…」ってネガティブ情報を掻き集めておりました。たしかに通勤でしか使わないのに本当にコスパの悪い買い物で、予算もめっちゃオーバーしてるし。

 

でも、おかんと一緒にドライブしてる間に走行しているワーゲンを見つける度、助手席のおかんは窓に張り付いて『あ!ワーゲンだ!あそこにもワーゲンだっ!』と子供のようにはしゃいでいました(めっちゃ可愛かった笑)。気付けば勝手にネガティブポイントをどんどんプラスに転換していき、最終的には「買ってもいいかな?いいよね?」と聞かれ「もちろん!!」と私からの最後の一撃。

 

買いに行く直前まで「子供に掛けるお金は全然惜しくないのに、自分への買い物となると本当に迷うわぁ。」と言ってました。家族で使うものとかは惜しみないのに、「買ったらいいじゃん?」って言っても自分の物はずっと我慢してたもんね。

 

かつては、「不幸だ〜不幸だ〜」と、人生の被害者を演じていたおかんが、今日、自分のために、自分のお金で買いました(しかも、ニコニコ現金一括払い…!!超クール!!!)。 

 

 

でもね、おかんよ。あなたが1番高いワーゲンを買ったことが私にとってこんなにも嬉しいのは、「私もついでにワーゲンに乗れるから」じゃないよ(笑)


私が涙が出るほど、このおかんの買い物が嬉しいのは、『あなたが心底欲しいものに、妥協せずに手を伸ばしたから』。それは、「あんたも幸せになっていいんだよ。」っていう母からのメッセージのように感じ、私から溢れる涙は「あなたが勝ち取る幸せは、あなたから溢れる幸せは、こんなにも人を幸せにする力があるんだよ。」っていう母への気持ちが溢れたものでした。

 

 

母と娘とは、本当に不思議なもの。
わたしは、「おかんより幸せになってはいけない。」ってどこかで思ってたんだね。これでまた、知らないうちに自分でかけた呪縛が一つ、解けたみたい。

 

 

私も自分の幸せに、自分の欲しいものに、しっかり手を伸ばしていく。
私も、おかんに続く!!(車は買わないよ。)

【なんでキレイじゃなくちゃいけないの?】の答え

以前ブログにも書きましたが、、

 

 

tyouwa-san.hateblo.jp

 

 

わたしは、外見を褒められるのが、ずっと怖かった。(あ、そもそも褒めてないよって人、とっても自意識過剰ですみません。。笑)

褒められると、「キレイじゃなきゃ自分は価値がない」って思うスイッチが、どうしても押されてしまうから。


褒められると、「お前の魅力は外見だけだよ」って言われてるみたいで、怖かった。
一方で、「自分のためにキレイでいればいいじゃん」って思うけど、「自分のためにキレイでいる必要あるか?」って思ったし。でも、好きな人の前では、「キレイ」な自分でいたいって思う。

 

自分にとっての外見の優先順位が、あれから今日に至るまで、ファッションもスキンケアも化粧も、どのくらい力を入れていいのか全然わからなくなってました。

 

(そもそもそう思い込んでしまったのも、幼少期に容姿しか褒められたことがなかったから、それにすがりついただけだったんだけど。今思えば、なんて純粋なんだ・・・!)

 

今日やっと紐解けたんだけど、そもそもわたしの中での「キレイ」の定義は「飾り立てた自分」のことだった。見た目を褒められると怖いのは、飾り立てた自分を評価されたとき、中身の、素の自分を受け入れてもらえるかどうかわからなくなるから。

 

これは本当の自分じゃないのに、評価してもらって、それが自分で嘘で取り繕ってるような気がして、見た目と中身のギャップを相手に感じられるのが、落胆されるのが、もーーーーんのすごく怖かった。「キレイ」の意味を、履き違えてたんだ。

 

でも、今なら思う。

 

わたしは腹の底から笑ってる自分の顔が、その自分の姿が、一番美しいと思う。
自分の内側の美しさが出るのは、腹のそこから笑っている自分の姿。
その姿見て、「キレイ」「美しい」と言ってくれる人は、きっと、ちゃんと、わたしを丸ごと愛してくれる。

 

腹のそこから笑える、しなやかな表情筋(!)と、「たのしい!」「うれしい!」「おもしろい!」っていう素直な気持ちさえあれば、飾らなくても、私はいつも自分のために、「キレイ」でいられる。

 

それ以上の輝きは、どうやら私にはないみたい。

 

 

 

 

 

 

 

『なんでキレイじゃなくちゃいけないの?』の答え。
そもそもキレイは、「飾り立てる」じゃなくて、「輝いてる」ってこと。

そして、もしキレイでいなきゃいけない理由があるのなら、きっとそれが私の、本当の姿だから。

 

 

 

今日までがんばってた自分に、超絶お疲れさまでした。

はい、脱皮。

【恥ずかしい皮たち☆夏の出来事シリーズ④】約2,000㎞の北海道キャンピングカーの旅に行ってきた。

 

 

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いかにクーラーつけずに、猛暑に爽やかに勝ち続けるかが東京での夏の過ごし方だったのに、札幌では自然の風が快適すぎて扇風機すらつけずに終わりそう・・・。と、思っていた矢先に台風10号の影響で秋まっしぐらだった札幌は、再度30度まで上昇。私はそれまで一度も使うことがなかった扇風機を押入れから引きずり出し、迫り来る台風10号に『警戒せよ!警戒せよ!』としきりに言うアナウンサーの声をスルーして、暑い暑いと言いながらスイカを食べまくる。そんな残暑を満喫するのでありました。

 

 

これも、夏らしくていいよね。

 

 

 

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8月中旬、私は東京の楽しいこと大好きな、フットワークがたんぽぽの綿毛くらい軽い友達たち含め、全6人で『北海道行きたいところを巡りまくるの旅』に行ってまいりました。

 

子どもの頃に憧れたキャンピングカー。中を覗いてワクワク。旅に嬉しい隠れ機能にワクワク。コンパクトな空間ならではの巧みな収納スペースにワクワク(?)。

 

そしてなにも決めずにその場のノリと気分で行き先を決めるという、スゴロクで行き先決めるのとあまり変わらないくらいな高めのドキドキ感を全身で感じながら、3泊4日で北海道を駆け巡るのでした。その結果まわったルートがこちら。(メンバーの一人が作ってくれました・・・!ありがとう!!)

 

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さらに詳しいルートと立ち寄りポイントはこちらからどうぞ!

夏休みにキャンピングカーで北海道を回った軌跡をgoogleMAPにプロットしてみた - It was impossible until yesterday

 

約2000㎞を移動したってことは、時速100㎞出したとしても20時間は運転するってこと。キャンピングカーの車体は思ったよりも大きく、アクセルベタ踏みでも80㎞が限界でした。夜な夜な運転してくれるたくましいメンバーを他所に、免許を持ってる中でもっとも体力と集中力と運転経験の少ない「こ、これが6人分の人生のハンドルかぁ・・・!!」と、ビビりな私は富良野から帯広までの約150㎞程度しか貢献できませんでした。すいません。

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(ケンとメリーの木)

 

北海道のスケールを把握していないメンバーに私は、「え、そんなの間に合わないよ!」とか言ってしまったり(稚内から帯広の勝美花火に向かう途中とか)、行き着く喜びより、そこへ向かう道中のエンジョイな時間より、最初はリスクが頭を占拠していた私でしたが、間に合った途端に「あぁ、私はなんてつまんな時間の過ごし方をしてたんだ」と反省。単純に間に合わなかった時の空気が怖くてしょうがなかっただけでした。そこからは「全部どうにかなるわスイッチ」に転換され、目の輝きを取り戻したのでした(たぶん)。

 

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(霧の摩周湖。さすが名前だけあって、何も見えません。)

 

そのあとも、帯広から外れた田舎町でガソリンが切れ、目的地にたどり着かず深夜山道で立ち往生かも、、とか、あまりに混みすぎて女体天国化した温泉のお湯が出ないとか、キャンピングカーが高速道路で風に煽られて橋から落ちそうとか、手に汗握る緊張感やたくさんの楽しいハプニングに見舞われました。

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(美瑛のひまわり)

 

 

それでも、どんなピンチがやってこようとも、「行きたい!」「逢いたい!」っていう気持ちさえあれば、そこにたどり着けるんだなぁ、と思わせてくれる素敵な旅でした。すごい燃費悪かったのに、エンプティマーク点灯してから20㎞くらい走ったもんね。

 

 

 

あの素敵な時間はみんなで作ったんだなぁ。としみじみ。

本当にお友達ってすばらしいです。

 

 

また、北海道に21年住んでいたにも関わらず、学生の時に上京してしまい、欲望の町ススキノすら案内できない私は、北海道についてなんて知ってるわけがなかった。そして、北海道に帰ってきてよかったなって、更に深く深く思えたのでした。

 

 

 

夏よ、ありがとう。

 

 

 

 

夏の出来事シリーズはこれで終わりです。

明日からは、通常営業に戻ります。

引き続き、恥ずかしい皮たちをお楽しみくださいませ。

 

 

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(知床、オロンコ岩の上から、寝巻きに近い格好で)

【恥ずかしい皮たち☆夏の出来事シリーズ③】じいちゃんが、日本国天皇から『瑞宝双光章』をもらった。

天皇から表彰される」ってのがピンとこないのは、私だけか。

 

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(とってもありがたい表彰状なのに、まだ額に入れてない手持ちの状態で撮ったので、よれてる…)

 

 

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外箱の高級感。

 

 

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これが、突如お国の遣いの方がおじいちゃんに届けてくれた、「瑞宝双光章」。

 

 

ま、まぶしい・・・。

 

 

 

そもそも、瑞宝双光章とはなんぞ? 

ウィキペディアによると、

瑞宝章は、「国家又ハ公共ニ対シ積年ノ功労アル者」に授与すると定められ(勲章制定ノ件3条1項)、具体的には「国及び地方公共団体の公務」または「公共的な業務」に長年にわたり従事して功労を積み重ね、成績を挙げた者を表彰する場合に授与される(「勲章の授与基準」[2])。 

瑞宝章 - Wikipedia 参照

その中でも、瑞宝大綬章・瑞宝重光章・瑞宝中綬章瑞宝小綬章瑞宝双光章瑞宝単光章の六種があるみたいで。ただ単純にお国に従事しただけではもらえないみたいです。

  

とにかく、我が家にとっては、親戚含め、おじいちゃんと血を分けた我が一族にとっては、この夏一のビッグニュースなわけで。

 

 

 

じいちゃんは、生涯を警察官として従事してきました。

みんながみんなもらえるわけじゃもちろんないみたいなんだけど、

じいちゃんは一体、どんな業績があるのかな。

 

じいちゃんの家の机の中には、本物の手錠があって、

小さい時に触らせてくれたっけ。

『物は大切に扱わなきゃダメだ。』

『親に心配かけるなよ。』

って言ってたなぁ。

じいちゃんに教えてもらったことは、シンプルだけど私の脳ミソに深く刻みこまれたこの2つ。

 

 

もし、まだ記憶がちゃんとあったら、この賞をもらったじいちゃんはなんて言ったかな。

Seven Starのタバコと大好きなウィスキー飲みながら

『すげえだろ』なのか

『こんなもんたいしたことねえよ』なのか

具体的な関わったすごい事件のことを、しんみりと話してくれるのか。

 

 

 

 

 

きっと、記憶がサラサラと流れてしまった今のじいちゃんは、この表彰よりも、美味しいおまんじゅうの方がうれしいんだろうな。

でも、いつかこの肉体から離れた時に、きっと改めてこの表彰を受け取るんだろうな。

ザンネンながら、私はその場には立ち会えないけれど。

 

 

 

じいちゃん、やったな!おめでとう。

 

自慢のおじいちゃんでいてくれて、ありがとう。

 

大好きだよ!

 

【恥ずかしい皮たち☆夏の出来事シリーズ②】花火だけが一瞬ってわけじゃなかった。

今年の夏は、去年とは全く違う哀愁漂うロンリーサマーになるんだろうなぁ、寂しいなぁって思ってた。立秋を迎えた8月の北海道はいま、カレンダー通り、着々と秋に向かっている。風の匂いも、葉っぱの色も、鈴虫やトンボだって、北海道の自然はいつも全力で「秋だよ!」って教えてくれる。

 

そんな自然からの声に「もう秋かよっ!」って嘆くような、今年の夏を後悔するような、やり残したことはたぶんありません。

 

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 花火だけが一瞬ってわけじゃなかった。

 

 

8月のはじめ、毎年楽しみにしている江戸川の花火大会だけはどうしても行きたくて、力技で東京にいきました。しかも延泊までしました。打ち上げスポットからかなり近いところに場所取りしてくれる人たちがいて、おかげさまで今年も、光を浴びるように花火を見ることができました。

 

 

でも、今年の花火はなんだか、

 

 

打ち上がる視界いっぱいの花火に、みんなの心を一瞬で惹きつける花火に、

 

夜空を瞬間的に彩る花火に、あの一瞬の美しさに、

 

涙が出そうになった。

 

それは、ただただ感動したんじゃなくて、

 

「自分がそうありたいから」だったんじゃないのかな。

 

 

自分をいつも抑え込んでしまう要らないものを、

 

すべてを取っ払ったものが本当の美しさなら

 

花火こそが、その姿だなぁって思った。

 

 

人にだって、過去も未来もなくて、いまこの瞬間だけを生きるしかないっていうのは

 

花火こそが、その生き方のお手本なんだなぁって思った。

 

 

花火は、腹の底にいる私に「今しかないんだよ」って教えてくれているような気がした。

 

あの花火を見て、私はなんだかいつもは届かない自分の深い深いところに、そんなメッセージみたいなのを感じてしまった。

 

私の溢れ出そうな涙は、自分の深い深いところに閉じ込めてしまっている、「ほんとうの私」の涙なのかもしれないなぁ。

 

 

夏は、大切な瞬間が、スローモーションに見える。

 

それは、一瞬の美しさのおかげなのかもしれないね。

 

 

 

花火だけが、一瞬ってわけじゃなかったんだなぁ。

 

 

 

というわけで、私の『太陽みたいな女になる計画』は絶賛進行中です。

 

夏よ、ありがとうね。 

 

【恥ずかしい皮たち☆夏の出来事シリーズ①】果物アレルギーが治っちゃった編

ブログというのは、「毎日書く!」と気合を入れれば入れるほど、遠のいていく。

肩に力の入った自分と向き合うのは結構しんどいらしく、脱力するまで書く気がしないし、文章の神様も全然降りてこない。「じゃあ今降りてきてるの?」と言われると言われればよくわからないが、「鍵盤を叩きたい!(楽器)」ならぬ「キーボードを叩きたい!(PC)」っていう気持ちだけはある。 この波に乗って、今日からここ1ヶ月間で溜まりに溜まった夏の恥ずかしい皮を一挙大公開(予定)。

 

 

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 私は果物アレルギーを持っている。

 

「桃を食べるために地球に降りてきました。」というくらいに死ぬほど食べた。桃で自分を20体作れそうなくらい、いただいた。

すると、人生のうちに超えてはいけないアレルゲンのボーダーラインを中2で優に超え、私の身体は大好きな桃を全力で拒絶し始めた。唇は腫れ、喉はかゆく、喉(というか食道?)が腫れ上がり呼吸困難な状態にまでなり、「中2、夏。ワタシ恋を始めました。」と浮かれている私の心と「異物混入!イマージェンシー!!」の赤ランプを灯し続ける身体とのギャップに、軽くパニック状態になった。あの暑い夏から、大好きな桃が食べられなくなったんだ。

 

 

 

こ、こんなに愛してるのに・・・。

なんなら、あの人よりも。

 

 

 

その事件があってから、私はりんご、梨、さくらんぼがダメになり(唇腫れる程度の軽症)、桃とビワがもっとダメになった(死を感じるほどに重症)。

もともとお肌はアトピーで、ハウスダストと鼻炎持ちなので抵抗力は強くない。自分の身体のスペックを把握して生活しなければ、決して甘くはないこの世の中、生き抜くことはできない。それらの愛しい果物たちは、泣く泣く「食べられないリスト」にアーカイブされた。お中元やおばあちゃんの家から送られてくる桃たちを前に、私は指を咥えながら、家族の幸せの入り口(くちの中)に運ばれていくのを見守ることになった。

 

 

またいつか、我が味覚に快感をもたらしてくれることを信じて。

 

 

 

 

あれから十数年たった今年の夏。おばあちゃん家のお墓参りの時に「どうせ食べも食わんから、持ってけ。」と言われ、たいそう立派な桃をいただいた。

私は久々に、桃毛が確認できるくらいまでの距離で桃を眺めた。ふと「姪っ子のおしりみたいだなぁ。かじりつきたいなぁ。」という思いがよぎる。

 

 

・・・。

 

 

 

頭の声で「アレルギーなんてもう時効じゃない?」「アレルギーだなんて幻想じゃない?」「むしろあれって、今世の記憶?」と、それにかぶりつくために、アレルゲンの有効期限を作り、身体の問題なのに気持ちの問題にして、あの病院に運ばれかけた己の記憶さえ疑った。

 

結局「先祖に一度お供えした桃は、食べなきゃバチが当たりそうじゃん?」と、捨て身同然で桃を食らうことに。すると、、

 

 

 

 

 

パクっ

「あれ。」

 

 

パクパクっ

「あれれ?」

 

 

パクパクパクっ

「おおぉっ・・・・!!!!!!!」

 

 

 

 

食べられる・・・っ!!!

 

 

 

 

 

 

というわけで、結局その日は3切れ食べても、なんの症状も出ず。

次の日もう1玉食べても、かゆくもならず。

心も身体も健康なまま、本日に至ります。

 

まじでありがたや。感動の再会。

アレルゲンが去ったのか、時間が解決したのか、アレルギーなんてウソだったのか、北海道の夏がそうさせたのか、未だに解明できませんが、とりあえず、アレルギーは治らないことはないみたいです。

 

 

 

我が人生のうち、半世紀ガマンして食した大好物。

あきらめなくてよかった。

もしかしたら、とうの昔の「食べられないもの」も、思い込みかも?

(食する際には、自己責任でお願いします。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

余談ですが、数年前にアレルギー検査をすべく皮膚科に行った時、約20種類のアレルゲンを水で溶かした液体をすべて右腕に注射しました。つまり20本の注射を一気に片腕にぶっすぶす打たれまくるという「末端恐怖症の人なら序盤で死に至るレベル」の苦行を強いられた時には、ぎゅっと握った手のひらから手汗がダクダクに滴りました。アレルゲンを調べたい際には、病院もいいですが「アレルギーかな?」って思ったら、素直に口にしないことをオススメします。

 

だって、ぶっすぶすに注射打たれるんだぞ。ブッスブスになっ!!

 

女子と仲良くなるための、必殺『きびだんご戦法』

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 女の友情は、強いのか、脆いのか。
 
 
 
私はかつて、女友達が少ない(というか、いなかったときもあるけど)ことについて、悩んだ時期がある。キラキラとした女たちとどう接していいのかが、全くわからなかったからだ。キラキラとした女たちは、なぜだか「わかる!」という名の”きびだんご”を持って、「これあげるから仲間になってよ」って言っているように見えた。そしていざとなったらどうなるかわからない「ペラい友情」を結んでいるように見えて、すごく安く感じた。 だから、人間臭く、腹を割って話しあえる(と、自分が思える)人間しか信用できなかったんだ。
 
そして、キラキラ女子と仲良くできない自分を、自分自身で良しとすることがなかなかできなかったので、少しの間、悩むことになった。
 

言葉と感情のチグハグ感

私は、なんにでも共感する言葉を発する人間に、共感ができない。共感女子は、きび団子を作ることに慣れてしまったせいか、それらしい共感ポイントをすぐに探し出すことができる。それはそれで尊敬してしまうし、「頭の回転が速いのだな」とか「発想の転換が上手だな」とか思う。だが私が気になるのは、その会話の中であらゆる意見の波に呑まれていく彼女の心の在り処だった。合わせまくれるあなたの心は、盛り上がる会話とは裏腹に、消耗して萎んでいくようにも見えた。それに気づいた私が「結局あなたはどう思うの?」と言うのも、なんだか野暮だと思った。
 
 
 
ほんとうは両肩を掴んで「Where are you!!」と叫びたいけど。
 
 
 
寂しさを紛らわせるために、その輪に入ろうとして、自分を手放していく。
そしていつしか、自分の気持ちもわからなくなる。こうやって、うわべの友情が生まれてしまう。この薄っぺらい空間は一体誰のためなのか。それがなんだか、無償に退屈で、窮屈で、でも一人じゃ寂しくて・・・これが、もんもんと悩んだ内容の内訳。 
きっと学生時代に誰しもが、群れるか否か、悩んだのかもしれない。そして何度かトライを重ねるもしんどくて結局、少数派に属することを選んだのだけども。
 
 
もちろん、すべての共感女子が薄っぺらなきびだんごを渡してるとは思ってない。「勘違いだよ。」「そう捉えるあんたが捻くれてる。」と言われれば、それはそれでそうなのかもしれない。「ナイス!」も、「イエス!」も、人はもらって嬉しいと感じるから。
 
でも、人の感情って、取り繕える言葉や表情以外の、些細な仕草とか、目線とか、その人から発せられる見えないなにかで感じ取れてしまうもの。もし、本当にすべてが共感できて受け入れられているのなら、言葉と感情のチグハグ感なんて、感じないはず。
 
 
 
 
 
 
ほんとうのきびだんごは、わからないことも「わかる」という言葉じゃなくて、「わかろうとする姿勢」じゃないのかな。
 
理解しようとする姿勢は、一緒に歩幅を合わせてくれるみたいで、うれしいもの。
私も、あんたと一緒に歩きたい。
 
 
 
それがきっと、特製きびだんご。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
余談ですが、先日「パンとラーメンは腹持ち悪い。」と言っていた女子がいました。パンはわかるけどラーメン腹持ち悪いか?と思ってどこの何ラーメンをどうやって食ったのか聞こうとしたら、横から「わかります!ラーメンは飲み物ですよね!」と共感する女子がいました。聞くタイミングを逃した私は消化不良を起こしてラーメンが頭から離れずその足でラーメン屋に入り「特製とんこつチャーシュー麺」を注文して腹持ち具合を確かめようとしたら、まんまと胃もたれしてしまいました。その話を後日、共感女子に話したらこう言われました。
 
「年ですね!」