だいたい、感じてなんぼ

あらがわず、しなやかに。

「幸せに生きる責任」を放棄したら、大変なことになったんだぜ。

責任ってなにかしら。

義務も同じく、なにかしら。

 

 

私のフワフワと浮ついた心を、上からバシーン!!と叩かれるような言葉。昔は聞くだけですごく嫌な言葉に感じたの。縛られるような、肩に何か乗るような、とても胃のあたりがモヤモヤして・・・とにかく、聞くだけで吐きそうな言葉よ。なにをするにも、そんなのただの押し付けでしかないと、私は息苦しくてしょうがなくて、それにいつも反抗的な態度でいたわ。

責任の分だけ給料が高いとかよく言うけど、まさに我慢料のように聞こえるのよね。それ、本当に必要?と思う世の中の圧力の1つよ。「責任、義務を負う=社会人として、あたりまえでしょ。」と言われるものが私には理解できなかったの。予定通りに、思い通りにならないと、なんでもかんでも「責任」っていう言葉で片付けて。こんなの世間体が生み出した架空の心の荷物で、いらんものだと思っていたわ。こんなの、相手を縛り付けるための言葉でしかなく、自分よりも、ただ相手とって好ましいものだと思ってた。だから、イッツ、ソーヤング!なわたしは、あらゆる責任を放棄したのよ。

 

ただね、生きゆく道中で、どうやらこの責任とやらには大きく2種類あることに気付いたの。1つは、相手のお金や時間、労力を割くことを前提に、その対価としての行動を取る必ず守らなきゃいけない責任とか社会的な責任。もう一つは、生まれてきて埋め込まれた義務や価値観、世間体によって生まれてくる、その人自身が勝手に負っている架空の責任。

 

前者は、だいたいお仕事や子育てになるわね。こっちはなんだか、義務ってよりも、責任って言葉が合うわね。

私は仕事、「苦しい」「辛い」「畑違いでした。」これで逃げ出したこと、あるわ。

「若かったの」と、言いたいところだけど、本当のところ、自分のことを全然わかってなかったの。今思い返せば、地べたに額をつけて、ひたすらにごめんなさいとしか言えないわ・・・。

 

 

一方、後者はね、「これは◯◯◯すべきだ!」という、暗く、理不尽な責任。何が理不尽って、その本人の世界にしか存在しないルールや価値観から生まれてきているから。だってこうしないと「愛してもらえないんだもん」「認めてもらえないんだもん」「褒めてもらえないんだもん」とだいたい子供の頃に本人が勝手に生み出して勝手に背負った価値観からくるもので、それを全うするためにとても燃費の悪いエンジンを搭載しているから身も心も削って走り続けるの。

このわけのわからない責任を他人にも押し付けてくる人に対しては、通常は「私にはそんな義務も責任もないでしょ??」といった具合に、相手の訳のわからない凝り固まった価値観を冷静に篩(ふるい)にかければいい。でも、中には頭が混乱してくるほど自分の世界のプレゼンが上手かったり、逆に気が弱くて全部真に受けてしまう人もいる。すると、まんまとパルプンテドラクエの混乱魔法)にかけられ、「・・・も、もしかしたら、そうかもしれない。」と相手に言いくるめられた日には、大変なことになったりもする。だいたい友達や周りの人間の助言で魔法が解け、復活する。

 

なんでも押しつける理不尽なオ・ト・ナ♡にはなりたくない。

やはり何事にもストレートなオ・ト・ナ♡でありたい。

 

しかも、これがプライベートになると訳のわからない価値観などの私情が入り、契約書でも交わすこともないのでトラブルになりがちなのもこの「責任」とやら。このとき「普通」という言葉が通用しないのも、プライベートならでは。また、責任の取り方になると、もっともっともーっと厄介。

お金で解決できるようなものならまだいい、許してもらえるまで誠意を見せて謝る。次で挽回するとかも、いい。そんな約束しましたっけ?みたいな訳のわからないことを相手が要求してきた日にゃどうしようもないわ。

 

あとは、世間体が生み出す空気中に浮いているたくさんの「◯◯であるなら〜すべき」というAir責任&義務も、後者よ。これに取り憑かれると、もう厄介。何歳になったらこうするべき。男だから、女だからすべきのジェンダー的な責任&義務。家族構成で生まれるすべき責任&義務。1歩でも外に出れば、勝手に敷かれてあった何の保証もないたくさんのレール。そのポイントごとに果たさなきゃならない責任たち。それにプラスして自分自身が作り出した責任を背負って・・・。

 

 

 

私は、本当に幸せな未来に向かっているの?ある時、ふとそんなことが頭をよぎる。

本当にこれらの責任を、義務を果たせば、私の渇いた心は満たされるのかな。
わけのわからない責任に苦しんだ。ただ苦しいだけの責任なんて背負えない。責任の取り方なんて、もっとわからないよ。

私が悪いのかもしれない。でも、そんなことより、あなたの心を、私の心を埋める、もっと大切なことがあるんじゃないのかな。

 

わたしは苦し紛れの責任逃れもたくさんした。公私共にね。でもね、ただ責任から逃れるだけじゃ、反抗するだけじゃ、私は全然幸せにはなれなかったの。安堵する瞬間はあっても、なにかが違う。

私は、なんの責任を果たせばいいの?

どうやって生きていけばいいのかな。

どうやったら幸せになれるのかしら。

 

 

ねえ、教えて。

 

 

 

 

 

 

いろんな責任があるけど、「自分が幸せに生きる責任」だけは、絶対に捨てちゃいけなかった。

あらゆる責任の中で、最も大切なのは「自分が幸せに生きる責任」だった。

これはこの世に、センサーだらけの自分の身体をもらって、この身体を使って自分を幸せにしてあげること。それを追求し広げていくことだ。

つまりは、自分を幸せにしてあげる=自分の身に起きていることの全責任をもつことだった。

ただただ身に降りかかる境遇や出来事に「違う!」「こんなはずじゃない!」抵抗するだけじゃだめなんだ。それだけなら、罰を受けて極楽浄土から地球に逆戻りさせられたジブリの『かぐや姫の物語』と同じ。結局、自分がどうしたらよかったのか。それにかぐや姫が気付くのはこの世にはいられなくなることが決定してからだった。(月に帰ることが決まってから。)あの地球を振り替えるシーンがたまらない・・・。

 

ただし。全責任をもつというのは、理不尽なことも自分のせいにして追い込むのということではない。未来の不安と過去の後悔を捨てて、今この瞬間から自分の幸せを生み出すためにすること。

身に起こることすべては自分の責任。そうしたときに、やっと自分を幸せにするスタートラインに立つことができるんだ。

そして、全部自分で決める。分かれ道があった時、自分の意思で「YES‼︎」も「NO‼︎」も言えなきゃ、目的地とは全く違う場所にたどり着くんだ。自分の舵から手を放したのは自分なのに、それを誰かのせいにした瞬間に、「こんなはずじゃなかったのに。」と、またいつもと変わらない毎日。

 

 

 じゃあ私の幸せとはなにか?自分の価値観や責任を剪定する。 

己を知らずして、それを追求することはできない。まずは「自分の幸せとはなにか?」を問いまくること。じゃあ今まで背負ってきたこと、きっと幸せになれると信じてきたことが、自分にとって真実か嘘かを背負っている価値観や責任の中で、どれが幸せを感じるのかのとてもシンプルな剪定方法がある。それは、なにか自分の首を絞めている可能性があるものに、自分自身に「それは本当か?」と聞いてみること。

本当ならば、身体はゆるむ。本来幸せを感じる時は、身体の幸せセンサーが反応して、呼吸が深く、自分の身体が開放的でリラックスするようにできている。ただ、「本当だ!」と頭の中にいる自分が答えても、腹や胸に違和感や息苦しさが生まれれば、それはめちゃくちゃ怪しい。自分の幸せにはそぐわない、AIR義務&責任の可能性が高い。もしかしたら本当に本当なのかもしれないけど、なにか引っかかってることがあったり。ただ放っておくとその幸せになかなか近づけないのだ。だって、「叶えたいけど、叶えられない」って言ってるようなものだもの。これについては、できれば深く掘っておきたい。というか、私はすぐに「なぜだ!」とノートを開いてしまう///

もし責任が我慢料になっているのなら、幸せのレールから少し外れているのかもしれない。もちろん、ただ単に辛い、苦しいからという理由だけで判断するものではない。その先の幸せを、凝り固まった頭ではなく、最も純粋な身体が察知できているかどうか、だ。察知できているのなら、耐える価値は必ずある。察知できたのであれば、きっともう幸せのレールに乗っているはずだから、辛いことがあっても、心はすぐに満たされていき、エネルギーが湧いてきて、その道中も必ずハッピーなことが度々起こるんだ。

身を削る燃費の悪いエンジンを搭載した責任と、心が満たされていくハイブリッドエンジンを搭載した責任は、たどり着く場所が全く違うんだぜ。

 

 

 

 

私は今日まで何枚かの恥ずかしい皮を投稿し、そのほとんどが、母親との関係が上手くいかなかったという主旨の皮だった。

ただ、私がどん底の鬱になったのも、決して「母親が悪い」と言いたかったわけではなく、すべては「幸せに生きる責任を放棄した私」が原因だったんだ。気付けば、わたしは「母親を幸せにしてあげなきゃいけない」という責任を勝手に負っていたんだ。

わたしが幸せになる責任も、クーデターを起こすことによって幸せになる権利すらも、放棄したんだ。

私は3年前のどん底で「絶対に幸せになってやる。」と、自分に誓った。この3年で、逃げ回る以上にしんどいこともあったけど、自分の居場所も、自分の幸せも、周りにいる人も、いまここから作ることができるってことを知ったんだ。もちろん今も、選択肢が現れるたびに「どっちに行こうか?」と自分の身体に問う毎日。

 

あなたがどんな環境で育って、どんな境遇で、どんな辛いことがあったかはわからない。でも、どんな時でも自分が幸せに生きる責任だけは、絶対に絶対に捨てちゃだめだ。

 

私の幸せになる責任にカテゴライズされない責任は、背中からおろした。だいぶ軽くなった身体でセンサーが反応するままに動く。

 

そうやってみんな自分のセンサーを元に歩けば、世界はもっと明るく、輝いていくんじゃないかな。

 

 

だってこの世は、思い描いた未来しか現実には起こらないから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、私が望んで英語の勉強し始めたものの、なかなか英語が上達しないのは、「時間がない」、「良い教材がない」、「先生と相性が悪い。」と、私以外の何かに責任転嫁していました。もし今度会った時に私がそんなようなこと言ってたら、右頬をぶん殴ってください。

すぐに帰って勉強します。