『自分の幸せ』が先か、『他人の幸せ』が先か、実験してみたんだぜ。
さぁ!そうと決めたら早速幸せになりましょう!
そう、これはまたまた3年前の話。『絶対に幸せになってやる!』と心に決めた脱☆鬱!をしたばかりの私が最初にやったことは、自分を幸せをすること。だが『幸せってなんだっけ?』と、直ぐさま天を仰ぐほどの大きな壁に当たってしまった。
自分の幸せになる道を探すのは、学生が進路を決めることなんかとは訳が違う。目的が「進学すること」というのはほぼ決まっているのなら、あとはすでにある選択肢の中から乗れそうなレールに乗っかるのみ。だがこれは、100人いたら100通りの幸せがあるという、難易度はまさにドラクエ全シリーズごちゃまぜ級。私は、エンディングが「死」ということだけしか決まっていないRPGを、コンテニューではなく、新たにスタートすることを選んだ。心がまだ複雑骨折してる中、ギプスだらけで机上の自分探しの旅が始まった。
『エンディングテーマは何にしよう?』という逆算して考えていくのもアリだが、まずは主人公を男にするか、女にするかくらい大きな2つの選択肢がわいてきた。それは、『私が幸せになるには、自分の幸せが先か?他人の幸せが先か?』というもの。ここでの答えは、言わずもがな「女」。ではなく、自分の幸せが最優先だ。
なぜ自分の幸せを先にしたかというと、私は母のために人生を捧げてしまったのだが、自分の心が壊れて、鬱!になるほどエグい人生になってしまったからだ。他人の幸せが先っていうのは実に怪しい。というか、明らかに他人が先じゃないことは、一度死んだ私が知っていたんだ。
早速、自分の幸せ最優先!な私はあらゆる自分が幸せになるための条件をリスト化してみたんだ。
ただ、出てきたのは、
「心身ともに健康であること」
「大切なお友達が周りにいること」
「お金に困らないこと」
「好きなことを仕事にできる」
「好きな洋服が着れる」
「好きな場所に住む」
「好きな髪型ができる」
「好きな食べ物が食べれる」
・・・こんな感じで、半分は物欲だった。
というか、自分のことを何も知らない私は、だいたい物欲しか出てこなかった。ま、それもそのはず。私は東京で持っていたパソコンと服くらいの、必要超最低限の荷物しか札幌に引き上げてこなかったから。自分を満たせそう、今の自分が出せる幸せの条件を携えて、私は東京に飛び立った。
それからだいたい1年くらいで、当時の『自分の幸せの条件』は「好きなことを仕事にできる」以外、だいたい満たされた。自分の好きなことが何なのかが、この時はまだわからなかった。これにはきっとまだ時間がかかると思ったので、そんなに気負うことなく、自分の心のアンテナが反応するのを待った。
だが、9割ほどが満たされた私は、自分が想像していたほど、幸せにはなれなかった。ただ誤解してほしくないのは、「大切なお友達が周りにいること」が達成されたことは底知れぬ幸せを感じた。孤独から解放され、私が浅くも深くも、「一緒に遊ぼう」「同じ空気吸おう(?)」と言ってもらえるような、居場所ができたような気がしたから。だけど、自分が想像していた幸せな状態とは違って、まだなにかが足りなかった。
もっと良い服、もっと良い家、もっと良い食べ物がほしいか?と聞かれれば、別にそこまでレベルは上げたいとは思わなかった。なんせ、ここでは多くを語らないが、私は2ヶ月ほどホームレス生活をしたことがある。その時でさえ、特に不幸だと感じることはなかったのだ。質よりは、最低限に毛が生えた状態でもう満足だ。
「幸せ」って、こんなもんなんだろうか。
生きることに、私の希望に、少しだけ雲がかかる。
私は「快」に近い感覚が、波はあれど、何もしていなくても幸せを感じられるような、心の土台が喜んでいるような状態が1日中、365日続くと思ってた。
やっぱり他人の幸せを追求して、私がくじけたその先に、幸せはあったのだろうか。
途中で力尽きた私は幸せになる資格などないのか?
幸せになるには、あとなにが足りないの?
だれか、おしえて。
「自分の幸せ」「他人の幸せ」の限界値。
私はどちらの幸せもとことん追求し続けた。常に見直し、頭の片隅どころか、どセンターに「私は幸せになる」と思い続けた。ブツブツと独り言のように漏らしていたかもしれない。
だが、自分の幸せだけを、他人の幸せだけを追求すると、その幸せにはそれぞれ限界がきた。他人の幸せだけだと、心が破綻する。今回みたく、自分の幸せだけを追い求めると、虚しさに近いような、欲しいものはなんでも買ってもらえる子供のような気持ちに近い。本当は、おもちゃよりも一緒に遊んで欲しいのに。 私は成功者でもビリオネアにもなっていないが、もしかしたらこれが、不幸せな成功者や金持ちを生む原理なのかもしれない。
物欲にゴールはない。
欲を出せば、今身の回りにあるものよりもランクの高い、上質なものが世の中には溢れかえっているから。そしてそれがある生活は、それを手にいれた自分は、もっと潤って、自信があって、輝いているかと想像してしまう。 それでも私は「それなりでいい。」と思っていた。心の乾きが著しいときに「欲しい!」「もっともっと!!」となったことが、過去にはあった。だけど、それを手にいれたとしても乾いたコップが潤うのは、それを手にいれたその一瞬のみということを、私は知っていた。必要以上のハイランクな代物には、更なる「乾き」と「虚しさ」が付きまとう。嫌なことを忘れようと飲んだ酒が、かえって記憶を深く刻むことになるかのように。やっぱり、必要最低限に毛が生えた程度でいい。
それでも、自分の幸せを追求しつつも、ありがちで申し訳ないんだけど、私がしたことで誰かが喜んでくれると、幸せになってくれると、私一人だけの幸せの何倍も何倍も幸せになれた。それは「存在を認められた喜び」っていうのもあるのかもしれない。でも私が一番に感じたのは、「私1人の点」で幸せになるより、「点を繋げた面」で幸せになることに、尋常じゃないくらいの幸せがあった。幸せ2倍どころか、幸せダ☆イ☆バ☆ク☆ハ☆ツ!!その面に出合わせた人たちは問答無用に幸せの渦に巻き込まれる。こんなに心も身体も軽く、生きているってすばらしい!と思える体験はない。
でも待てよ。これって、やっぱり「他人の幸せ」が一番だったってこと?
自分の幸せの中に、他人の幸せがある。心の土台を自分で作ることを前提に。
「全責任を負う心」と「自分を全肯定する心」が土台を作る。
これが、自分の人生の舵を握り、尚且つ、自分の幸せを追求する力になる。
これが最高の「他人が幸せが得られて、私もとっても幸せ♡」な状態が得られる可能性をぐぐっと高めてくれる。
私にはこれがなかったから、心の土台が揺らぐから、一度破綻してしまったんだ。
この2つの心が、私も、そして私以外の誰かも幸せにするための絶対要素。
私が出した答えは、『自分の幸せは1人じゃ成し得ない。』ということ。
自分の幸せなくして、他人の幸せなし。
他人の幸せなくして、最高の自分の幸せなし。
ちなみに、私はこれで「幸せになるための条件」をすべて把握したと思い、幸せ目前であぐらをかいていた。
しかしこのあと、私が見つけた幸せの条件に、さらなる疑問が浮上?
私の幸せ探しの旅は、再び机上からフィールドに飛び出した!
次回!恥ずかしい皮!『私は誰一人として幸せにすることはできない。』
絶対見てくれよな!!(アニメの次回予告風)