だいたい、感じてなんぼ

あらがわず、しなやかに。

『私は誰一人として幸せにすることはできない。』

『自分が幸せの中に他人の幸せがある。』それが私の「こたえ」だと思っていた。あとは自分で土台を作れば、これさえおさえておけば、私は極楽浄土にたどり着くはずだと、信じてた。途中まで。

 

 

私は人生の「なぜ?」に対しての「こたえ」を探すのが大好きだった。

それは私がまだ大学生の時のアルバイトで、私の教育係をやってくれた、先輩の影響が強かった。

彼は、アーティストとして弾き語りの路上ライブをする傍ら、アルバイトをして生計を立てていた。当時、彼は私の持っているどんな疑問に対しても、すでに彼なりの「こたえ」を持っていた。

そしてその「こたえ」が、すべて「きっとそうなんだろうな」と、いまの自分の中でのベストな考えのように感じた。そんなこたえを持った彼が羨ましく、尊敬でき、私もそうなりたいと願った。恋心ではなかったけど、彼の存在が、私が私の中の「こたえ」を探すようになったきっかけになった。

いま思えば、彼はあの若さで、どれだけ自分と向き合って、あれだけの「こたえ」を導き出したのだろう。彼の「こたえを引き出す力」と、その「こたえ」をたくさん持った彼はいま、日本でも名の知れるシンガーソングライターになった。 

 

あのまま行けば、今頃彼は極楽浄土寸前まで辿りつき、菩薩くらいの境地に入ったんじゃないか。

ステージに立った彼はいま、何を考えているのかな。

 

 

 

 

前回書いた『自分の幸せの中に他人の幸せがある。』という、散々試行錯誤して導き出した私の「こたえ」。この心の土台を作る2要素をもとに、私は早速実践しまくった。

その結果、雨降って地固まる☆と言いたいところだが、それでもなぜだかまだ、私の心の土台が固まらなかった。極楽浄土行きのレールに乗っかったぜ!と思っていた私だが、ひょんなことで土台に亀裂が入り、またもや脱線事故を起こしたのだった。 

後になって気付いたが、実は土台を固めるための要素がもう1つあった。

 

「私は、あなたを幸せにすることができる」という慢心。

というのも、幸せな自分になるために猛ダッシュした私は、あろうことか、他人の幸せが欲しくなってしまったのだ。一番自分が幸せになれる、自分が幸せになるために他人をなんとか幸せにしようと、他人を変えようと努力してしまった。 私が思いつく限りで、「あなたはこうした方が幸せになるはず!」と、元気一杯にアドバイス!それで自分の心を満たそうとしたんだ。

結果的にそれは、自分だけの幸せをまた追い求めることでもあり、他人の幸せを追い求めることでもあった。つまり、他人を変えたいという「欲」が湧いてきたのだ。困ってる誰かを私は幸せにすることができる、と信じて。

これは、「誰かを幸せにしなければいけない責任」を背負った、かつての私と同じ姿だった。

 

生まれたばかりの雄弁な幸せ論者は、すぐにただのエゴイストに化けた。

 この矛盾が起こった時点で、もうひとつの心の土台をつくるための条件があると踏んだ。

 

 

 

「自分以外のだれかを幸せにできる」っていう勘違いと、「幸せにしてあげたい」という欲が、私をとっても不幸にする。

『人は、他人を変えることができない。』

私はこの言葉の意味を、理解しているつもりだった。

心の土台は、自分を全肯定すること、自分の身に起きたことすべてに責任を負うこと。この2つの要素によって作られると思っていた。満たされない欲が私を蝕んだ。 

自分ではそのつもりはなくとも、よかれと思った言った言葉に、「変えたい」という気持ちが自分を満たすための「欲」乗れば、それはその欲が大きければ大きいほど、自分の心を擦り減らす。結局その欲は、たとえ自分を全肯定したとしても見返りを求める欲だから、誰かに認められることによって自分を満たしたいと、自分の土台を自ら削ることになるのだった。

 

心の土台を作るための第3の要素は、『「エゴ」を、「我」を捨てること。』

「このエゴイストが!!」というセリフを、なにかのドラマか映画で聞いたことがある。

エゴは自我。生まれて2歳くらいまでに芽生えるもので、これが発動し始めると「イヤイヤ期」とも言われるらしい。「これがほしい」「ここに行きたい」と、時にモチベーションに変わる「欲」もここに含まれるので、一概に悪いわけではない。だけど、その欲や価値観を自分以外の誰かに強要することは、自分を満たすためだけにする行動、言動であり、価値観の強要になってしまう。「満たされてませんので、誰か満たしてくれ!」と全力でやる人こそが、このエゴイストなのだ。

心の土台を作る第3要素は、この自分を満たすためだけの思考を捨てるってことだった。だが、これが意外や意外、自分で思ってるほど簡単なことじゃなかった。なにがエゴで、なにがエゴじゃないのかがわからなかったから。その選別作業から再スタート。果たして、再び極楽浄土行きのレールに乗せられるのだろうか。

 

 

 

 

 

「心の土台は、自分を全肯定すること」「自分の身に起きたことすべてに責任を負うこと。」「エゴを、捨てること。」

言い換えれば、「過去を受け入れる」、「人のせいにしない。」「他人に求めない。」だ。これで土台はできた。

果たして、この3つの要素が、世間の「こたえ」かどうかはわからない。私の中でこれ以上の「こたえ」は出ていない。そして、下記の文章によって、わたしのエゴは消え去った。

 

 

 

この3つが揃ってからは、私の心は、やっと心の安らぎを得た。

やはりなんでも3点揃うとバランスがいいのかもしれない。

 

安定感と強度で言えば、イナバの物置だろうか。さすがイナバ、100人乗っても大丈夫!

 

 

私はそれと同時に、「ありがとう」という言葉の本当の意味を知ることができた。このことに気付かせてくれた、私の周りにあるすべてに、感謝の意を込めて。

下記の文がその全て。

 

 

 

私は誰一人として幸せにすることはできない。それは、今生の親友だとしても、たとえ血が繋がっている家族であろうと、私は誰一人として幸せな状態に変えることなんて、できない。

私が幸せにしてあげられるのは、この世に私1人しかいない。

あなたを幸せにできるのは、あなた1人しかいない。

何をどう受け取るかは、本人しか決めることができないから。

ただ、私たちは一人じゃ、ひとりっきりじゃ幸せになることなんてできないんだ。

あなたが幸せだと、私はわたしひとりの幸せの何倍も幸せになれる。

それでも、やっぱり自分以外の誰かを幸せに変えることなんて、できないんだ。

私があなたを「幸せにしたい」「よくしたい」って思ってしたことが、あなたにとって必要かどうか、本当に欲しいのかどうかわからない。たとえ、それを受け取ってくれたとしても、私のしたことをどのように受け取るかは、私ではなくあなた自身が決めることだから。

だから、私はあなたを幸せにできそうなことを、変えることはできないってわかっていながら頭を振り絞って、私のできる限りの範囲でしたいんだ。だってあなたの幸せは、私の幸せだから。

もし、あなたはあなたしか幸せにすることができないのに、私があなたのためにしたことに対して「おかげで幸せになれた。うれしい。」と受け取ってくれたとき、喜んでくれたとき、それは本当に「有難いこと」。だってあなたの幸せは、私の最高の幸せだから。

もし、私は私しか幸せにすることができないのに、私以外の誰かが私を幸せにしてくれたら、それは本当に「有難いこと」。

だから、私を幸せにしてくれた私以外の誰かの行動は、本当に有り難い。有難い。

 

 

「有難う。」

 

 

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ちなみに、みなさんご存知の通り、私も完璧な人間ではないので、こんなことを書いておきながら、スーパー甘えん坊モードになる時があります。そんな私を受け入れられず『甘えんてんじゃねえ』と怒りまで湧いてきた方は、すかさずデコピンを食らわせてください。

きっと他の人に甘え始めます。