だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

身体の中の、行方知らずのカロリーたち

 

我が家の年末年始の食事は、毎年豪勢だ。

  

「大晦日なんだから。」「お正月なんだから。」という理由で、1年で溜まったフラストレーションの消化と、年始のロケットダッシュ効果を目的とするかのような食材やお酒が、毎日宅配で我が家に届く。足りない細々としたものは大丸へ。いつもなら「我慢しろ」とか「こんなの必要ない。」と言われそうな品々が、次々とカゴの中へダイブしていく。どこにそんな金があるのかと、抑制の効かない消費活動は、そのカゴを持つ私を終始不安にさせた。

 

 

その財布の紐がユルユルになったタイミングで、食事とも年末年始とも関係ないものを、パソコンの前でポチっている母の背中を幾度となく目撃した。人間とは、解放すると歯止めが効かず、ある程度進んだ所で「ハッ!!」と、我にかえるみたいなことがある。普段から倹約家というわけでもなく、かなりのどんぶり勘定でよくそんなに上手くお金を管理できるなと感心しつつも、それにあやかろうと「私も欲しいものが」という言葉がフワフワと浮かんだが、冷静に考えてやめた。見事なロケットダッシュ後に、我が家の家計がまわらなくなり、急失速したら困るからだ。

 

 

 

テーブルを彩るおせちやら、毛蟹やら、すき焼きやらに、数々の母の手料理も追加。その準備が整うにつれ、冷蔵庫の中は料亭の冷蔵庫のように普段見ないものでいっぱいになり、それらの食事はたった3日間で、我が家のレギュラーメンバー(父、母、私)とゲストメンバー(兄、嫁、姪)ですべて平らげられたのである。

 

 

視覚的にも、美しいものばかり。

いや、本当においしかった。胸いっぱい。ごちそうさまでした。

 

 

  

年末年始の母の行動が印象的すぎて出だし話が長くなってしまったが、

問題はその後である。

 

 

 

行方の決まったカロリーはエネルギーというだけあって、目的があれば瞬時に燃料として使われる。

活用すれば、考える力にも、身体を動かす力にもなり、いずれにしろ生産的な生きるパワーに変換されるのに、行方の知れぬカロリーたちは、時間とともに性質を変えて負のエネルギーとして体内をさまよい続け、エネルギーの動きの少ない部位を住処に、ぷにぷにの二の腕や、たるたるのお腹、力強いハムストリング!ではなく、「ハム」みたいな太ももに形を変えていく。

 

 

おいしい食事と、伸び広がった胃は、通常だと満腹中枢の「FULL」というサインが赤く点灯するはずなのに、視神経からのキラキラとした情報が多いからか、嗅覚からのお誘いが止まらないからか、脳からその信号は送られず、物理的に満たすまで一向に食欲は収まらない。

 

 

正月が終わってからも、まるで朝から晩まで動きまくった運動部の中高生みたいに、私はエネルギーを欲している身体に入るだけ高カロリーなものを流し込んだ。

 

 

豊満な、重くて邪魔な、場合によってはかわいらしくも非生産的な身体は、こうやって作られるのかと、ふと当たり前のことが頭を過る。

 

 

 

 

 

 

 

 つまり、今日は何が言いたいかというと、

 

 

 

 

ただ「太っちゃったよ!」ってこと。

 

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