だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

ただいま東京。

もう戻ってくるはずではなかった東京に投下していただいてから、4ヶ月目に突入。
「東京には、もう二度と戻らん」と豪語して一度北へ消えた私は、今年の5月から波風立たぬ水面下でなるべくひそやかに、悶絶級にお暑いお江戸をうろちょろしていた。過去1年間は、景観を損ねるようなビル群なんぞ無縁な突き抜けるような空の下で、野生のキツネやうさぎと共に食べて寝て、ボーッとして生きるような世界から、152.8倍速のハイスピードで景色が変わる世界と再度歯車を噛み合わせるまで、たいそう時間がかかった。

 

「どうだい?噛み合ったのかい?」と訊かれれば、そこそこ。と答える。だが、その世界の中でも、忙しなく回り続ける小さな歯車ではなく、自分のペースで生きていけるように荒く大きな歯車がゆっくり回るようなポジションをうまいこと見つけて、「あまり動的ではないけど、踏み出す1歩が想像以上にでかい」というような一見アンバランスなスタイルに落ち着いている。

 

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アルティメットニートからの卒業


「働かない」という選択肢があるなんて、狭い世界を見ていた時には知らなかった。ニートでも、東京にいても、人はなぜか、生きていける。どうやって生きてきたのかは、自分でも全てを把握できていない部分もあるが、別にパトロンがいたわけでもない。偶然に偶然が重なって、奇跡と言わんばかりの巡り合わせで、自分の力だけでは生きられないけど、流れるように無限の他力に甘えて生かしてもらった。生かしてもらう力なんて私は兼ね備えていないけど、その可能性にダイブする勇気はある。そうなると、生きるための仕事はもう必要なくなるということに気付く。引き潮と満ち潮があるように、人はその役割を交互に繰り返しているのかもしれない。絶妙なバランスを保って。

 

 

 

ご飯のレパートリーが増えたことで、ファミリータイムを思い出す。


農家直送のスーパーが近くにあるのは、本当にありがたい。田舎に生息する虫たちもでかいけど、田舎の肥えた土壌で育った野菜もでかい。通常の3倍くらいする大振りで艶やかな野菜たちは、生命力に溢れている。だけど、「お腹がいっぱいになればいい」という台所に立つためのこの最低限の動機は、料理を美味しくすることはできない。
いくら健康的な食材を並べても、インスタ栄えのする現実的ではないオーガニックでオシャレなミールをテーマに台所へ向かっても、明日の活力になるような、人を元気にするような、生きている上で一番欲しい温もりみたいなものは、そのマインドからは料理に宿せないんだと思う。

1年間、毎日とは程遠くとも、母親と台所に立った時間と、家族でテーブルを囲んだ時間は、その心を育んでくれた気がする。美味しいご飯ができる度、実家の食卓を想う。それは寂しさからではなくて、実家で過ごした時間の満足感が時間差で胸に溢れてくる感覚。ホカホカなご飯とみんなで囲むテレビ。今は、ホカホカなご飯と対面するNetflix

それでも、3回に1回はしょっぱくて、手の届きそうだったホカホカの食卓の記憶は私からグンと遠のいてしまうのだけど。

 

 

少しずつ、だれかに会いたくなる。


詳細綴れば、この潜伏期間の顛末をいくらでも書き続けられるのだけど、ひとまずこんな生活をしながら密やかに息をさせていただいています。
少しずつですが、咲かせていただける環境を得て、ほんの少しずつ、開花させていただいております。
また、8月に入ってから、本当に少しずつですが、会いたい人に片っ端から会いに行くということをやりはじめました。別名「戻らせていただきました、手ぶらご挨拶週間」です。水面下でうろちょろするのをやめて、久しぶりの再会を噛み締めたい。そんな思いでチビチビとお声掛けしております。

 

すでにお会いさせていただいた、ロングタイムノーシー!な人々からは、十中八九「あの写真見たよ」と、開口一番に言われる。それは雪中ヌード写真のことを言われてるのだけれど、あれは大丈夫だったのかと、一体なんだったのかと、なんだかバツが悪そうな顔で言う人もいれば、あれはとにかくナイスな心意気だったと賞賛をくれる人もいる。どちらにせよ、それだけ脳裏に焼き付いてくれたのなら、誰かの心を揺さぶったのなら、やってよかったなと思う。FBで繋がっている皆様、雪中ヌードの感想もまだまだお待ちしております。


そして、お世話になったにも関わらずなんの挨拶もできていなかった皆様には、三つ指ついて、お詫びに上がらせていただきます・・・!

 

 

 

ではまた。

 

 

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