だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

私はもう、働けないのだと思う。

サマーウォーズ』を見るのがここ数年の夏の一大イベントとなりつつある。甲子園球場が最高潮に盛り上がりを見せるタイミングに合わせてその行事は我が家でひっそりと行われ、全人類の命をかけた花札決戦に、ひとり心を震わせる。それでいて、記憶が1年で抹消されたかのように、毎度のことながら真新しいピュアな涙が頰を伝う(と同時に鼻水も伝う。)。世界が一つになる瞬間は、たとえアニメでもファンタジーでもフィクション映画でも、人間に共通した深い喜びにアクセスすることができるのかもしれない。そう思うと、隣人への我が心の開き具合が「世界は一つかもしれない感」を日常に持ち込めるか否かの境界線になるのかもしれないとも思った。

 

 

先日、あまり関係ないかもしれないけれど、電車に乗っていたら向かい側に座ったカップルの男性のジーパンの股間部分が大きく破けていることに、奇しくも気が付いてしまった。破けているというか、どんな動きをしたのかわからないが通常十字に縫い合わせてある股間部が思いっ切り破けた所に、別のジーンズの布を縫い合わせてた超ダメージジーンズの傷が開きそうなのである。深く腰をかけて貧乏ゆすりをする彼の左足が揺れるたびに、その裂け目の向こう側の世界にかろうじて結界を張っている糸が綻ぶ。その先に美しいものなんかありもしないのに、その緊張状態の糸に完全にロックオンされてしまう不思議さ。 二駅が通過した頃には、下着の色がスカイブルーだということも発覚してしまった。

 

それに気づかずに彼氏の話半分でスマホをいじり倒してるオシャレな彼女も、その彼の悲惨な現状に気付いた方が、その結界が解けそうな彼と歩く彼女自身のオシャレ度も自ずとアップしそうと思い、どうやら先に降りることになるっぽい私は、彼(彼女?)にその事実を伝えるか否かの臨時脳内会議をかけた。その結果、「世界が一つになるかもしれない!」という決断に至ったのだけど、立ち上がったところで口がカラカラに乾き、全くもって声が出ず、私は世界が一つになる瞬間を体感することもないまま、涼しい顔をしてそのまま車両から立ち去った。

 

 

 

 

 

 

 

 

世界を一つにすることは、時に勇気のいることなのかもしれない。

 

 

今年は、いつもより少し早くサマーウォーズを見よう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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最近、雨の日続きで外にゆっくりする日があまりなかったように思うけれど、先日、夜に久々に空が顔を出していたので、ベランダに出た。ディズニーのお姫様が歌えば寄ってくる動物たちとは真逆で、日が沈めばただ息を潜めているだけなのにハイエナのような蚊たちに囲まれる。彼らもお食事の時間のようなのでいつもならお部屋に引っ込むのだけれど、この日はどうしても空が見たくてつい、蚊取り線香を買いに行った。人生で初めてそれを手に入れたのだけれど、見事に誰一人として近づけない絶対領域を手に入れた私はそれを、文明の利器!と讃えたい気持ちになり、お空そっちのけでしばらく興奮していた。

 

お空は、我がテリトリーの中で唯一のナチュラル素材である。マンションのベランダから聞こえる音は、蝉の鳴き声とアスファルトがタイヤで削れる音だけれど、見える景色の半分はありがたいことに開けたお空です。頭の中で絡まった糸も悶々と解き方を考えているよりも、そこではずっと解放的で生産的な想定外な角度で、行き先のわからぬ絡まった糸を、割と素敵な世界へと紡いでくれる。それは海とか山とかもそうで、きっと、現実的に誰がどうだとか、何が大変だとか、そういうことじゃなくて、ただそこにあらゆるものの「生命の源」を感じることができるからなんだと思う。

 

私は、もう働くことはできないのかもしれない。たまに本気でそう思う。それは自分の中で最も恐れていた事実だし、そう思わざるを得ない決定打をずっと待っていたかのようにも思う。心配しないでいただきたいのは、仕事をやめるとかやめないとか誰が何したとか何が嫌だというそういうものではなくて、単純に自分を殺すことがミリ単位でできなくなっているのだ。多少のストレスにも耐えられない耐久性に欠けた心は、丸一年滞在した北海道の大地と澄んだ空気で磨きがかかったらしい。強靭な精神を培うどころか、生まれたばかりのピュアリズムみたいなものが大いに幅を利かせている。(道民すべてがこうなわけでは決してない)

そして重要なのは、誰に殺されているわけでもない、たった一人の私が、じぶんを殺しているということ。

 

 

そもそも私は本当に諦めが悪い。それは「無理だ」と思うタイミングが人よりも遅い(もしくはスーパー早い)ので、すぐに殺しにかかる。辛抱強いとか、我慢強いとも違う、もっと言えば、それは良くも悪くもそれにしがみついてしまうことでもある。何かの自分の欠陥を現時点で持っていない未知なるブースターパワーで補うことができるとどこかで思っている。それはきっと美しくもあり、それが真っ当な在り方だというのが世の常なのだろうが、最近ではもうそのパワーが湧く前に根本がズレが生じているのだということに気がついた。必殺技みたいな、パワーを絞り出さないと滅多に出ない秘技を絞り出さないと、目の前のそれが出来ない摩訶不思議な現象に「?」と疑問符をぶつけた方が良いということにもっと早く気づいた方がよかった。

 

 

 

駆け込み寺、現る。

ズレといっても、きっと大したものではない。ただ、気づかないままガタガタのコースの外を走ってしまっただけの「オツトメあるある」だ。つまるところ、もう働けないというのは、1ミリも殺せないのが苦しいということだ。

 

そんな中、先日駆け込み寺みたいな場所に住んでいるある人に会いに行った。正確に言うと全然寺じゃないんだけど、そこは「あぁ、この人がこの空気を作っているのだな」と思えるようなあたたかな空気感で、わたしは勝手に緩んでいった。そしてその空間を共にしただけなのに、会って間も無く、涙がこぼれ落ちた。

 

色んなことに力が入って空回りしてしまっているということ、気付けば溢れんばかりのやりたいではなく、誰かのために動くという「空っぽの奉仕」をしてしまっているということ、トータルで、じぶんの自然な状態から、大きく離れてしまっているということ。ちょっとしたことで、周りに影響されてしまう我が心の透明感(!)、目を離した瞬間に殺し始めるということ、じぶんの知らない所で流れが滞っていることに気づけたのは、その人が、先ほど述べた「生命の源」にとても近い自然な状態にあったからなのだと思う。

 

我が心の透明感は生まれ持ったナチュラル素材で、それを今まではどうしようもない弱さと捉えていたけれど、きっとそれを殺す必要も、全くないのだと思う。澄み切った素直さみたいなものを守っていく、生かしてあげることを真っ先にしなければならないのだと思う。そう思うと、生命の源も、ものすごく近くに感じるようでならない。また、そういう人間が存在してくれるということは、誠にありがたいと思う。しかしその反面、その状態で生きることが難しく、「有難い」という世の事実にも、ちょっとした違和感も湧いてしまう。

 

 

 

 

そう思うと、なんだか、腹の底から湧いてくるものを感じた。

 

 

 

 

 

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涙と鼻水を含んだティッシュたち 

 

 

 

 

ではまた

adieu

 

 

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