だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

流れていたい。

ヤケドを負った。明後日くらいのことを考えながら台所に立ち、沸々と頭の中に何かが湧いてきたタイミングで、「うし!明後日に向かって飯を喰らおう!」と思ったら勢い余って左手に思いっきり熱湯をかぶった。ヤケドなんて幼少期におばあちゃんの家の薪ストーブに素手で触れた以来のご無沙汰の負傷で、ひとまず流水と思って晒してたのだけど、たちまちそれが熱湯に感じるように熱くなり、氷水に切り替えた。見れば、部分的に「これから鬼の手になります!」みたいな地獄系ビジュアルになっており、我が身のことながらとてもかわいそうな手だと思った。その手は私の一部でもあるけれど、常にバーナーで炙られているような痛みに耐えきれないのか、半ば気が遠のいて、大ケガをした小動物や誰かの手を心配するみたいに、他人事になっていく自分に気づく。「こりゃ魂が抜けてしまう!」と思い、もう片方の無事な手を使って周辺地図を確認し病院へ行くことに決めた。

 

病院では、今日いっぱいは覚悟しろと先生に肩を叩かれ、あらゆるアプローチの薬を処方してもらったものの、痛みはその日の峠を越したところで綺麗に治った。地獄系ビジュアルだったその手は現在、水ぶくれの範疇を超えて、指の上にカブトムシの幼虫が寄生しました的な昆虫寄生系ビジュアルに変貌を遂げている。

そして今、この指の上にあるカブトムシの幼虫に、頼むからこのタイミングで羽化(破水?)しないでくれと懇願しながらバシバシとキーボードを連打している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分の体液が原因でPCを修理に出すという羞恥心は、できれば今世で味わいたくない。

 

 

皆様も火傷には十分お気をつけください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (更新現在、幸いにもキーボード上じゃない場所で破水し、現在はゾンビ系ビジュアルに進化しました!)

 

 

 

 

 

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今月は怒涛の移動ラッシュの予定になっている。今日から6日まで関西に飛び、7日を挟んで、8日から11日には沖縄に飛ぶ。そしてその週末の三連休には北海道の予定。まさかひと月にほぼ最北と最南に飛ぶ日が来るとは思わず、そしてありがたいことに今年はもう3回目の沖縄で、名古屋も2回。これから四国や鹿児島なども食い込んで来るというおかげさまで謎に移動が多い。お金で買えるなら体力をおくれ!というくらい貧弱なじぶんの身体が非常に心配だけれども、2年ぶりの関西は本当に楽しみで、昨夜は遠足前夜の眠れない小学生と化した。

 

 

 


最近、人に会うことが多いからか、あらゆる角度から飛び込むようにやってくる我が人生の伴走者についてよく考えるようになった。突発的でも短期的でも長期的でも、なんだか目の前に現れる登場人物が年々濃くなってきてるようにも思う。これは全ての人類に言えることなんだと思うけど、自身の人間関係の相関図は日々刻々と大なり小なり変化していて、最近ではずっと変わらない関係の方が周りを見渡してもよっぽど少数派のように見える。

 

 人間関係を中島みゆきの「糸」を少々お借りして例えるならば、その人生をかけて紡いでいくその糸には、そこには老若男女も時代も世代も問わずして「お互いに編んでいく糸」と「ただ偶然に重なって織りなされる糸」という2パターンが存在するような気がする。後者はただの偶然からの特別なテコ入れが一切不要な、気付いたら出来上がっていた系の制作活動となるが、前者に関しては、予測不能な綻びにも歩み寄る「努力」というよりも、心惹かれる何かに歩み寄りたいという「意欲」が存在して、その根源にある「人は他の誰かと分かち合いたい」というその溢れ出るベーシックな気持ちの2段構造が、なにかしらの「展開」を生むのだと思う。 

 

 

そうやって展開や発展を繰り返す後に、人間関係が変わるということは、頭の中や心の中も少なからず変化しているのだと思う。自分ではあまり気づかないようなものも水面下ではきっと微妙でも時間がかかっても変貌を遂げていて、それに伴って今の思考や口から出てくる言葉たちは、生まれては死んでいく。そうやって広がったり狭まったりして、削られて、磨かれていくのだと思う。人間関係の中でも私がいま触れたいのは、男女関係についてなのかもしれないなと書きながらにして思ったのでちょっとだけフォーカスしたい。

 

つい先日「二人でお互いに向き合っている時よりも、同じ方向(前)を向いている時の方が、その人をより近く感じることができる気がする。」と、温泉に浸かりながら友人が言っていた。まだ煩悩の塊みたいな私にとって、それは今まで言葉で表せなかった御NEWなものであり、それを「ロマンチック街道」と名付けたくなるような思考回路だった。私はひとり悶々としている時間がわりとあり、やるべきことに手につかないことがあり、すぐに窓の外に目をやる。突然その私の目の前に、煩悩を拭い去ってくれる優れた御坊さんが現れたような気分になり、私は耳を傾けまくった。

 

 

「二人で向き合ってる」というのはきっと空間を共にしてお互いを思い合う時間なのだと思う。二人で向き合ってる時間は、音楽とか文学とかの時間芸術でもあり、空間芸術でもあるみたいで、時間を彩ったり、空間を彩ったり、いわば同じ空間や時間(もしくはその両方)を共有することだと思っている。それは物理的に満たされることとか、伝えたいことを伝えたりすることとか、それで結果的になにかを生み出したりする時間に相当するように思う。その時間はたいそう素敵で、問答無用でカラフルになる時のように思う。その時間が欲しくなるし、惜しくもなる。

 

ちょっと余談だけど、その一方で、それがそこに対してのなにかしらの執着や不安を内包するようなものなら、それは時にその時間を暗転させてしまい、結果的に会ってる時間のグラビティが3倍になったりもする。それは建設的な意欲でもなんでもなく「心が満たされない!」ということをただ叫んでいるかのようで、そこに対するやさしさは、なんだか一向に溜まらない穴だらけのダムに水を注ぎ続けるようなもののように思う。

 

では「同じ方向(前)を向いている時の方が、その人をより近く感じることができる気がする」というのはどういうことかというと、その時私はふと、そこに重ねるかのように『人類みな兄弟』という言葉が浮かんだ。それはどちらかというと肩を組み合う体育会系の印象が強くてあまりロマンスを感じる言葉ではない、というかむしろゼロロマンスなのだが、その言葉を胸で思うと、なぜだか外にいるはずの人間やら物事がすべて胸の内にいるような、とても不思議な感覚になる。遥か遠く会えない場所にいる人だとしても、想いを馳せる時間も、愛おしく想う時間も、きっとその相手と伴走してる時間なのだと、私はそう思いたい。だけど、今言っている『人類みな兄弟』という、ほしいものや人、すべてをもう自分の中にいい感じの状態で内包しているのだという感覚は、特段努力して手に入れる必要のある従来の物理的思考よりとても私に安心感を与えてくれて、お留守な心を本来あるべき場所にそっと戻してくれる。ような気がする。。すると自ずと前を向き、そこから本当の意味でその人との伴走がやっとそこから始まるのだという感覚になる。つまりは、場所は違えど、共に前(同じ方向)を向き、リアルタイムに流れているという、満点のロマンス感覚である。(要約すると、このようなことを友人は言ってくれた、気がする。)

 

 

 

それは最高だな!!というか、とても美しいなと思った。

 

 

 

循環させていくこと

目の前の人の幸せだとか、幸福だけを願うとき、人との関わり方は、きっともっと自由で、ひたすらに軽ろやかで、やさしくなるのだと思う。それはその場所に留まったり育んだりするものがなく、一見寂しいように思うけれど、そうすることで、流して、巡らせることで、その思いはもっと大きくなって(育まれて)還ってくるのだと思う。

 

共に流れていたいと思う人と出会うには、ただ流れ続けること。時々立ち戻っては、人となにかを巡らせて、また流れていく。おのおの流れの速さの違う人たちと、まるで糸が紡がれていくように、最後の最後には素晴らしいものというか、作品が出来上がるんじゃないかなと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とか言って、まとまりきったかわかりませんが、関空に到着したので、また!

adieu

 

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