だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

寂しさポロポロ

今、静岡県の山の上の、とある民家でこれを書いています。

つい先日、アップデートの際にスマホにバグが起きて、再起動無限ループ状態になりました。ここから世界(ネット)にアクセスできるのは奇跡的にその再起動ループから抜けられた1日計30分くらいしかなくて、今の私は山や海で遭難して、頭上にヘリが飛んできたとき(Wi-Fiが繋がったとき)に思いっきり「私はここにいる!!!」と叫ぶみたいな心境に、もしかしたら近しいのかもしれません。そしてその間にうまいことこれを投稿しなければ、私は完全に、世界から忘れ去られてしまうとさえ思う。

 

 

不思議なことに、この民家には他にはない静けさがあります。寺や神社のような神聖で厳かな場所の静けさ、田舎のような純朴な田園風景が広がる場所の静けさとは少し違う。それは聴覚上の静けさでもなくて、虫の鳴く声は頻りに聞こえるのだけれど、自分の身体の外から入ってくる情報が極端に少なすぎて(むしろない)、まるで自分の内を見るように強いられるような静けさ。それは、内側から湧いてきた感情に、有無を言わせずともぴたりとピントが合ってしまうような感覚。そこから目を逸らすことが許されないみたいな凛とした空気がこの家には漂っています。

 


そして、私が捕まってしまったのは、まぎれもない「さみしさ」でした。

 

 

この寂しさの質は特別で、誰かがいない寂しさとか、何かがない寂しさとか、具体的に足りないものがあるから「寂しい」というものではない、今まで体験したことのない特別なもの。

 

それは、心を「外にある何か」で埋めようとしている分だけ、きっと強く感じるのだと思います。

 

 

 

 

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ここは不思議な空間。少し年季の入った1階建ての使い勝手の良い、今は定住している人のいない木造の古民家。前述した通りの山の上にあって、小さな民家が山の斜面に沿うように密集している。山も海も温泉もある自然に恵まれた場所。居心地はいいのか今のところわからない。いや、思い切りウソをつきました。

 

この「寂しさ」が消えてくれない限り、私は猛烈に居心地悪く感じるのだと思います。

 

なぜお前はそのような場所にいるのかというと、先月の怒涛の「ど移動」からの流れの一貫で、とにかくアウトプットしたい!なにか作りたい!と願った先に現れてくれたのがこの古民家でした。「使う予定もないから、しばらくの間好きに使っていい」と家主さまが言ってくれて、なんだか、質のいいアウトプットというか、普段出てこないものが出てきそうでちょっとうれしい。

  

 

何かを作り出すにはもってこいという、我阻害するものは何もない環境にも関わらず、溢れる創作意欲よりも、この感情から逃れられない状況から、『お前のその「さみしさ」をまずはどうにかしろ』的な、当初の予定よりもマイナス地点のスタートになっています。 外から入ってくる情報がないということは、あらゆるインプットがないということで、この静寂な不思議な空間と、それに畳み掛けるように、今の私には世界に繋がるすべがなくて(スマホDEATH)、その静寂さを紛らわすことができない。 

 


山の中で半ば強制的にオフラインにされて思ったのは、ネットには、世界といつでもどこでも繋がれる「ありがたみ」というよりも、今や自分で選んで情報に触れているつもりでも、気づけは判断能力すらゆらがされてしまいそうなほどの量とスピードの猛威すらあるということ。自分でそんなことはないと思っていても、選んでいるようで、たぶん浴びている。情報量は別として、それは超受動的なテレビとなんら変わらないような気がした。肉体的な体幹ではなくて、心の体幹がちゃんとしていないと、なんのために世界とつながっているのかがわからなくなる(というか疑うことすらなくなる。)。

 

そしてそこに心を奪われてしまうと、私のように、内なる本当に耳を傾けるべきものが感情へと形を変えて「寂しさ」として込み上げてくるのかもしれません。そして、本当はこの「さみしさ」は日常的にそばにいて、情報や喧騒に紛れることによってその都度、刹那的に、意図的に、それを見ることを回避し続けていたのかもしれません。

 

 

心を埋める「外にある何か」は、なにも情報だけじゃなくて、きっと物質的なものにも同じく言えることなのだと思います。(長くなるから次の機会に)

 


まだ何も生み出していないのに、ここに来てよかった!と思うことはすでにたくさんあるけれど、この副産物的な「さみしさ」をまずは抱きしめて、声が形を変えてしまう前の姿に、戻してあげること。今そうしてあげないと、私はこれを一生抱え続けなければならない気がするし、これを荷物にするのは重すぎる気がします。そしてこれを抱きしめれば抱きしめるほど、この家の「さみしさ」を引き立てるこの空間は自然と和らいで、仲良くなれる気がします。

 

引き続きこの場所にはWi-Fiはなくて、スマホも調子が悪いので、これをアップする際には山を降りて駅のWi-Fiを拾う。繋がった瞬間に、ここぞとばかりにシャウトするみたいな、今後なんだか世間との温度感がどんどん広がっていきそうで、浮世離れしていきそうな気もしますが、その辺は空気をあえて読まない方がきっと楽しい。

 

 

 

山の上の滞在は続く。

 

 

 


そして、最終的にはいい感じに爆発できることを願って(о´∀`о)ドッカーン

 

 

 


では。