だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

鬼の断捨離と、やっちまってる感。

物はうるさい。視覚的にごちゃごちゃしてしまうという物理的なことじゃなくても、その物ならではの主張するものがあって、それは時にその場の秩序のようなものだったり、人の集中力を妨げる何かを発している気がする。空間には、落ち着くとか、集中できるとか、癒されるとかそういう効果を意図してつくりだすこともできるのだろうけれど、結局その場を作る人間がそういう人間ではないと、ただの「それっぽい空間」というか、「そういう風に見せたい気持ちも乗っかっている空間」にしかならないのだと思う。空間は人が作っている。「場が整う」とは人が整うみたいな、人の心の投影みたいな、そういうことなのかもしれないなということを思いました。

 

自分の存在する空間はどんなものになるのだろうか。できれば、柔らかいものであってほしいと思うけれど、ここ約10年くらいは自分の借りた賃貸なんかは「ずっとここにいるわけではない」と半分腰の浮いた状態で空間と共にしてきたものだから、基本的に物は少なく、なるべく空間に色がつかないようにというか、もしかしたら生活感もなく、殺伐としていたのかもしれないなと思った。現に1年以上同じ場所にいたことがなく、まるで落ち着きがなかった。

 

それでも気がつけば物は増えていく一方で、現在人様の家に住まわせていただいているのですが、もともとあった寺のような「静けさ」のある場所に、そういう物の「煩さ(うるささ)」みたいなのを感じ始めると、だいぶ減らしたにも関わらず、今回の秋の引越選抜に選ばれたはずの物たちをさらに抱きしめては葬るということの繰り返し。もともとあったその場の空気感に惹かれてここに来たのに、乱れてしまってはここにいる意味を見失ってしまう。

だけど、逆に質素とか、シンプルとかそういう空間に、ポツンと品のいいものとか、お気に入りのものを置くと、なんだかロウソクを灯したみたいにあたたかくなるような気がします。

 

 

 

f:id:KIRINwOrld:20171024190304j:plain

 

 

 

何度もいうけれど、今静岡県にいる。居るというか、全ての荷物を携えて、東京から人知れぬ山中に一旦引っ越して来てしまった。なぜここにいるのかを追って説明すると、会いたい人に会いまくる8月と、行きたいところに行きまくる先月の怒涛の「ど移動」中に、自分の生き方に対して「このままじゃダメだ、このままだと死ぬ。」と思ってしまった。北海道で澄んだ空気の中で紡ぎ出された思考で進んだはずなのに、その道の先に光が見えないだなんて。

30手前で2年間も(ほぼ)ニート状態で、ろくに書ける履歴もないのに超絶なミラクルにより魅力的な仕事のオファーをいただく。飽き始めていた北海道ライフから東京への片道切符と勝ち組マンションをあてがって頂き、「あなたの文章なら業界できっと一番になれる。」とか、「月収100万円もくだらなくなる。」とか、ポテンシャルを見出していただきその業界の神的な方々に勿体なさすぎる言葉をたくさんいただいた。それとは裏腹に、腹の中では「こちらではない。」という声が、大きくなる一方だった。何も疑問にも思わず、ただひたすらにやっていればいいものを、私は己の腹のそれに耳を傾けてしまった。こんな私でも社会に復帰できる、貢献できると、きっと大切な人も喜んでくれると、望んでいたはずの未来に、とうとう光が見えなくなってしまった。(今年いっぱいはもりもり頑張ります!)

 


ちなみに一旦引っ越して来たのは、そういった状況から逃げるためではない。
自分に極限状態を作りたかったからだ。もう右にも左にも逸れることができず後ろにも引けないような、そんな極限状態を。そういう極地へ向かうフットワークは天性なのか、なぜか死ぬほど軽い。先述したように、この寺のような空間にそぐわないものを葬るという鬼の断捨離をしてもともとあった内側を剥き出しにしてしまうくらいのこの場の「静けさ」を取り戻した結果、恐ろしいほどに腹の中の声みたいなものがよく聞こえるようになり、自分の置かれた状況から逃れるどころか、見て見ぬ振りをしまくって腐敗してしまいそうになっていたものを次々と目の当たりにしすぎて日々吐きそうです。それを昇華しては人知を超えたような至福を得られる時もあれば、その静けさにただ呑まれて、のたうち回りたくなるほど辛くもなる。その吐き気に見舞われていたら、早くも1週間が経過してしまった。

 

f:id:KIRINwOrld:20171024190749j:plain

 

ヴィパッサナー瞑想(?)だったか、1週間とか9日間ひたすら瞑想するための場所が千葉や全国各地で開かれていると聞いたことがある。携帯は没収、思考を作るものは持ち込み禁止、人と話すどころか目も合わせてはいけない。ただ瞑想状態を作るためだけに人は集まって、料金は無料(?)なのだとか。時間が経つほどに、居たはずの人が消えていく(逃げ出す)みたいな、極限状態にみんななるのだそうだけど、瞑想している時に隣に人がいるだけマシじゃないか、と思う。自ら望んでここに来て言うのもなんだけど、この極限状態の空間に、近隣にでさえ、人そのものの存在や、まして言葉を交わせる人は誰一人として居ない。(いや、嘘ついた。隣に住んでるおばあちゃんとすれ違いざまに挨拶するくらいはある。)

 

 


家にはWi-Fiもなく、テザリングのできない代替機のスマホしかない私は、ただこれを投稿するためだけに、この山を降りる。登っては下り、ゼイゼイハァハァ息を切らしながら駅に着き、キーボードをオラオラと打ち付け、これを投稿している。物理的な鬼の断捨離も、内側の鬼の断捨離も整って来て、この場所に居心地の良さを覚える時間も少しずつだけど増えてきた。当初湧きだった心のざわめきは、この空間の静けさに近づいて来た気もする(煩悩もちょーある)。

 

もし人の内側に「道しるべ」みたいなのがあるとしたら、それだけに従ってみたいと思った。どの道、私はこのままただ単にここを出ても、それこそ悪い意味での「やっちまってる感」にしかならない。世間的にだいそれた何かができるかどうかなんて問題ではない。内側の吐き気の奥にある、叫びの放出劇。死ぬほどダサくても、カッコつかなくても、それでも多分いいんだと思う。

 

それに、少し仲良くなったこの静けさのある空間に「ここでお前を行きてみろ」と、いわれているような気がしたんだ。

 

 

 


つづく。