だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

作品を作りたいんだ。

一体、お前たちはどこから入って来たのだ。


この家はやや古く、山だということもあって、細い隙間をぬってあらゆる虫たちがこの居住空間を行き来している。もっとも多いのは益虫と言われているクモで、サイズはXS〜XLまで、姿形も含めて来訪者としてはもっともバラエティ豊富である。「まじかよ」とか「うそでしょ」とか「ヒィ」とか、それらの虫たちは私の独り言の根源となっていて、あまりにも手に負えない相手には「お願いだから出てって」と声に出して懇願する。

 

しかし人間慣れてくると(それと共に侵入口らしき場所を見つけては塞ぎまくっているので激減した)、コオロギが出たときには「立派な脚だなぁ」とか、一生懸命に玄関口のぬかるみを進むアゲハチョウの幼虫を見たときには「一歩一歩が力強いですねぇ」とか、だんだん見つけた時に反応をしなくなり、なんとも機能的な虫たちに、「すごいなぁ」と感心すらするようになる。無駄な殺生はしないようにしようと思うのだけれど、包むためのティッシュをとるのがめんどくさかったり、窓の外まで運んであげるのがもう面倒だと思ってしまったりするときは止むを得ず「また来世ね!」と心の中で告げるなど、命のやり取りは今日もわたしの気まぐれによって行われている。

 

そのうち素手でそれをやり始めるくらい心臓に毛が生えてくるのではないかと思っているけれど、命の儚さみたいなものは、こんな自然のある場所に身を置いているからか、常にそれと隣り合わせのように感じる。息をするのを忘れてしまいそうなくらいなめまぐるしい都会生活に対して、ここでの生活は生きてるものすべての、「命」の鼓動みたいなのを間近に感じているような気がする。ここには利便性や煌びやかさ、洗練された最先端のモノ、視覚的に己を満たしてくれそうな物たちに触れることはほとんどない。けれど、ここにある自然は、触れたら触れただけ、自分には足りないものなんてひとつもないというような気持ちにさせてくれる気がします。

 

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山を駆け上がることを生業としているような生活をしていて、足腰の強度は日々増している。眠っていた筋肉細胞を叩き起こすどころか、細胞をぶちぶちと壊しまくるくらいの坂道や階段を行き来してると、たとえいつか心がダメになっても、この足がきっとどこかへ連れてってくれる的な頼もしさまで出てきた。 見知らぬ土地での野生的なロンリー生活は続き、毎日修行僧(?)のように孤独と対峙している。

 

 

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時に「孤独を愛する」とかいう人がいるけれど、「おぬし、それは誠か?」と、それを口にする全員をここに並ばせて端から順に問いたい。それはただのカッコつけ文句ではないのかと。 私も自分のことを独り遊びのプロみたいなものだと思い込んでいたけれど、そんなものはとんだ見当違いで、それは日常のどこかしらに、手を伸ばせば人肌を感じることができる自由さがそこにあったから言えたことなんじゃないかと思う。

都会にいたらいたで、表面上でしか繋がれないことに対して人は孤独だと、分かり合えないことに対して人は孤独だと感じるのかもしれないけど、私の指しているそれとはまた質が違っていて、「地球上にポツン」レベルの孤独である。ありがたいことに、それがもたらしてくれる感情のバリエーションは日々広がるばかりであります。(ありがとうございます!!)孤独とは何か影みたいな、陽の顔だけじゃない何かみたいな、そんな一面を匂わす言葉だけど、そんな自由さのある孤独なんて、ただのパフォーマンスというか人としての営みのON/OFFがもたらす演出のようなものなのだとも思う。(たぶん、かんたんに孤独だなんて言うな!っていいたいだけ)だけど、ここには絶対的な魅力も潜んでいるのは確かであります。

 

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(本日の日の出)

 

「他(他人)」が存在しないこの空間で、じぶんが好きだと思っていたあらゆるものが次々と変わっていっているような気がします。今まで集めた音楽も、お気に入りのプレイリストはある日突然プレイされることがなくなってしまった。洋服や、身の回りにあるものの嗜好が変わるというか、今まで自分の一部だと、人生を彩るものだと思っていたものが急にモノトーンに変わってしまうようなことがここでは頻繁に起こる。それは少しこわいことだとも感じるけれど、「他」が存在し、その目があったからこそ出来上がったその嗜好が積もり積もった「垢」のように削ぎ落とされているような感覚でもあり、それにとって変わって、新たにこれが「素敵だ」と思うものに手を伸ばしたくなっている。きっと新しいそれを手にした時には、まっすぐに、とても嬉しい気持ちになるのだと思う。

 

 

自分の作品を作りたいんだ。


私は恥ずかしながら、文章が書けない。書いているのだけど、納得のいくものがなかなか書けない。だいたい思考が散らかっている様をそのまま言葉に変換してるようなもので、散らかった部屋をそのまま晒しているような気持ちに頻繁になってしまう。邪念があればあるほど、どんどん伝えたいこととも、伝えたい人とも、言葉は離れていく。だけど、心に添える文章が書ける時は、必ず近くに「静けさ」を持ち合わせているような気がします。そんな「静けさ」が、この滞在中の空間のどこかにあって、まだそれを全然ものにできてはいないけれど、何かが音を立てずに整っていくような、静寂の果てに何かとの繋がりを感じさせてくれるような「静けさ」みたいなものを己の心に持ちたいと思ったのです。

 

 

今、ひそやかに、自分の目の前にいる人を題材にした「物語」みたいなものを書いています。いつしか友人が悩んでいる時に、私の洞察力をかってくれて「今の私がどう見えるか文章で書いて欲しい。」と頼まれたことがきっかけになっています。はじめはただその人を細かく分析したことを文章にしていたのですが、それじゃ物足りないというか、これだけじゃなんの解決にもならない!と思って、そこに寄り添える温度を持つものというか、じぶんなりの「愛情」みたいなものを言葉として添えたいと思いました。それを手紙でもなく、その人から感じたことを至るところにちりばめて「物語」にしてプレゼントしたら、泣いて喜んでくれました。それは本人とは関係ない人たちの心にも添えるものになりました。そして私自身、満足のいくものになりました。

 

自分の作品を公開することは、とても恐ろしいことだけど、そんな大切なだれかを喜ばせたり、力になれるのなら、私は作品を作りまくりたい。作品は自分自身を癒す効果もあるのだと、創作活動をして初めて知りました。せっかくなので絵を描く練習もしているのだけど、全然まだ公開できるようなものではあらず、こちらもまだ修行中。

 

 

さっきの話とは矛盾してしまうけれど、自分の発したことはなんであれ、必要な人に、必要なものだけ必ず届くといつも信じたいと思う。惜しみない温感を持つ言葉を紡ぎ出すために、今日も「孤独」と「静けさ」と友達になりたい。

 

 

(こちら先ほど申し上げた、処女作↓)

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吐きそうになりながら。

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