だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

ヨコにも後ろにも何にもないぜよ。

史上最高の孤独を体験できるような山の中から、28日の朝6時半の新幹線に乗って、久々に下界(都会)に降りてきた。


東京駅を経由して盛岡で一仕事終えたあとに、一息つく間もなく秋田県に移動し(本当は深夜から打ち合わせという名の食事会みたいなのがあったのだけれど色々限界で逃亡しました)、いま日本海に面したホテルの部屋の中でこれを書いている。 このホテルにはフリーWi-Fiがあって「Wi-Fiだ!Wi-Fiだ!!」と滞在するすべての人にWi-Fiを開放するだなんてなんて世の中じゃ。と、毎日駅まで汗かきながらWi-Fiを拾いに行く生活をしていると、こういった環境に軽いカルチャーショックのようなものを覚える。ただし、そんな開放された状況なのにも関わらず、私のPCもスマホも、そのフリーWi-Fiを指定されたパスワードを打ち込みまくっても一向に私を世界に繋がらせてくれなくて、結局山の中にいる時と対して変わらないような、日本海か太平洋かの違いはあれどいつも通りの海に面したこの場所で、ただ一人このブログをしくしくと書くだけの時間を過ごしている。(奇跡的に温泉付きだったので温泉も楽しませていただきました!)

 

 

久々に外の世界に出てみると、軽く気分転換ができる。新幹線の移動には飛行機にはない、旅情に浸る人たちからドラマのようなものを感じさせられるなと毎回思う。同じ飛行機に乗り合わせた人たちは、皆ワクワクしてるとまでは決して言わないけれど、物理的にも上に飛ぶからだろうか。少なからず行き先に楽しみを見つけようとしているような、顔には出さずともそんな「きっと心が踊りたがっている」みたいなものを感じることが多い。だけど新幹線に乗り合わせる人たちには、何か物理的には前に進んでいるのに、「心は過去を見ている」みたいな、なんだか晴れない顔で乗っている人に度々出くわす気がする。私も新幹線はあまり得意ではないというか、景色が目まぐるしく変わりすぎて富士山を通過する瞬間しかまだ好きになれないし、その車内で出くわす表情みたいなのは自由席と指定席とグリーン席で違うのだけれど(もちろんグリーン席に乗っている人は、なんかこう、余裕というか、豊かさがある)、わたしが人様とのすれ違う際には、まるでグリーン席に乗ってる人みたいな顔をぜひ皆様にお向けしたいと思っている。 ちなみに個人的には乗り物は飛行機と車が大好物で、飛行機で遠出してそこからレンタカーでぐるぐるするのが移動手段の最強のコラボレーションだと思っている。  

 

あの山の中の封鎖された空間に一人にされたような孤独感を日々味わっているけれど、下界に降りてきたら、「もうあそこには帰りたくない」だなんて思ってしまうのかと思ったけれど、外の空気に一日中触れたところで「私の帰る場所は、まだあそこだな。」と思える。すべて捨ててしまった今、どこか後ろめたさみたいなものを感じる瞬間はあるけれど、それでも、後ろには何もないな、と思えたことが、何よりも嬉しいです。

 

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ハロウィン感ゼロな静岡の山中では、私だけもう「もう師走だ。年賀状だ。」とこの世にひとりタイムラグが発生している。濃密な時間を10日ほど過ごしただけで2ヶ月間にも相当する負荷(?)というか、普通に生活していれば問われないような問いを毎日解かなきゃいけないみたいな、毎日が初めての体験でいっぱいな子供のように一日が長い。 このままじゃ年を越せない、と日々思う。家がやや古く、虫が行き交うくらいには風通しの良すぎるお家だけれども暖房器具も豊富にあって、寒くて死ぬことはないなとは思う。だけど、このままこの山の中で年を越すと思うと、それは自分を恨んでしまうことになり兼ねないな、とも思う。どうにかこうにか大みそかを心あたたかな場所で迎えたいと、なんとかしたいと、これだけが深夜0時ちょうどを越すための、明日を生きる活力に最近なり始めている。

 

 

tyouwa-san.hateblo.jp

 



 

先日、なかなか衝撃的な夢をみた。

人間の内臓が透けて見える的な能力(?)を持つ子がいて、それを絵に描ける友人が私にはいるのだけれど、その友人に夢の中で「私の絵を描いて!」とお願いしたところ、「ほうら、できたよ!」と非常に素敵な笑顔で見せてくれた絵が、鮮度や体温すら感じるほどの鮮やかな配色の、私の血まみれの腹わたの絵だった。その絵を見た瞬間に「古いお前はもう要らない。殺せ。」と聞こえて、ハッと目が醒めるという日があった。内容は非常に衝撃的だけれども、なんだかその日の目覚めは悪くなかった。(その子にそのことを報告したところ、「私だったら、腹わた出しているあなたの絵を描くけどね。」と、サラッと返信をいただきました。ありがとうございます!!)

 

 

「古いお前はもう要らない」と言われても、人間、時には前を向きたくないと思うことがある。啓発的なことを言いたいわけでは決してないのだけれど、前を向くことを怠った時、大いにビビってしまった時、私はそれに立ち向かわなくていい理由なんてのを考えたりする。前ではなくて「ヨコ」や「後ろ」を向き始める。自分以外の誰かや物質的なもの、目の前に広がる諸事情等々は「ヨコ」で、「後ろ」は過去だなと思ったりする。未開地の前方向に対して「なんで立ち向かわなきゃならないんだ!」とか思い始めた日には、辺り(ヨコ)を見渡して文句をつけまくることに精を出し、そして今度は「なんでこんなことになってしまったんだ!」という「過去」に火が移り、本日に到るまでのあらゆる出来事への肯定力が次々と奪われていったりする。そして現在地に足が動かなくなるような「ぬかるみ」みたいのを、無意識的に、且つ、意図的に生み出しては、嬉々としてそれに自分自身をハメてゆくのだと思う。それは自分の中で今までに何度も何度も何度もあって(いや、そればかりではないけれど)、その度になんとか素敵な誰かに助けてもらえたり、神様はいるのだな的なミラクルが起きたりして、総じて「目を覚ましやがれ」的な力が働き、大いに救われ続けてきたような気がする。


(そんな神のご加護の管轄内に身を置いているのにも関わらず、いまでは自ら極地(静岡の山中)にダイブする的な、それは決してヨコや後ろを見るわけでもなく、「下克上を起こす前」みたいな選択肢が「前」だと思い込み、自分の中でやったらヤバいと思われるものたちがすべて、人生のネクストステージへのジャンプ台に見えてしまう謎の自分がいる。)

 

 

だけど、その腹わたの夢を見てから、そのように道を逸れようする意思を見せてしまった暁には、山中でおなじみの「吐き気」を催すようになってしまいました。横にも後ろにも今まであった「ぬかるみ」という、ぬるい場所はもう遥か彼方へ消えてしまって、今ではそこに乗った船のスクリューに巻き込まれてしまうような、濁流みたいな、鳴門海峡にある巨大な渦みたいなものが発生しているように思える。横や後ろを見ることは、それにのまれてしまうことと同義のようで、それは、「もう自分があらゆる面で健康でいるためには、創造するしかないぞ。」と、今度は「上」みたいな場所から、非常にやさしく、明るいことを言われているような気がします。

 

 

 

たった今(日付変わって29日これを更新する寸前)、北海道にある実家に最新型の暖房エアコンをついに設置したとの朗報が入ってきました。「これで今年の冬は暖かいわ」と。今、秋田での仕事を終えて、接近している台風22号に立ち向かう形で、静岡の山中に、虫たちも避難してきそうな非常に風通しの良い家に戻るための新幹線の中で、送信元のおかんに「それは誠におめでとうございます!」と返信をする。私はまた不安な一夜をひとりあそこで過ごすことを思うと、まるで現実を受け入れられないみたいな気持ちになるのだけれど(前回の台風21号ではマジで死の恐怖を感じて避難所に避難しました)、でもやっぱり帰りたいと思う。

 

 

 

 


明日からまた、Wi-Fiを駅まで拾いに山を駆け上がるような生活が始まる。

 

吐き気とは無縁な一日を送れる日が、今から待ち遠しい。