だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

感性は、「ファンタジー」だ。


先日の11月2〜5日まで、静岡の山中に移住してから半月ぶりにTOKYOに滞在した。

久しぶりの東京は、山の空気に洗浄されつつある私には強烈で、新幹線のドアが開いた瞬間に何か喰らって具合が悪くなった。人が猛烈に溢れている場所では、気持ちを律するとか、丹田たるものに力を入れるとか、精神的に「うぉらッ!!」と気合を入れないとなにか目に見えない荒波に持ってかれてしまいそうになる。自然に囲まれていると、「自然と一つになりたい」みたいな思考が巡るからなのか、何か良さげものを体に巡らせたり、美味しい空気いっぱい吸いたいみたいな、できるだけ緊張感を解いて「この自然とカラダを馴染ませたい」みたいな働きに勝手になる。だから、そういう防御力たるものは山の中では必要とされていなくて、ドアが開いた駅のホームに飛び込んだ時には、ちょっと大げさかもしれないけど生まれて初めて海に入った時みたいな「どこに力入れて立てばいいんだっけ・・・?」みたいな気持ちになる。

 

その荒波は必ずしも悪いものではないのだろうけど、カラダの「都会モード」みたいなのはとても役立つ。目が覚めた瞬間から朝日を浴びれなかったり、自然や綺麗な空気に触れられず、喧騒や人混みにのまれると、べつに攻撃されている訳ではないのにHPはジワジワと減っていく。そんな環境に身を置くと目に入るというか手に取る食べ物は全然変わって、山の上では玄米ご飯に味噌汁と梅干しと魚とか、飲み物は白湯やお茶とか、味も薄くてシンプル且つ質素な食事が、意識的ではなく自然と欲するようになるのだけど、東京では、荒波の中で生きていかねばならんからこそ、エナジーチャージとか、リラックス効果とか、ごちゃごちゃとした喧騒やストレスから気を紛らわすための超刺激的な食べ物や、回復系の飲み物(意図的に、うぉら!!という気分にしてくれるもの)がたくさんあるし、東京にいると、自然とそれが食べたくなる。「カラダにいいから」と頭で意識しないと、カラダに良さそうなものにはなんだか手は伸びないのだ。カラダはいつどんな環境下でも、基本的にはサバイブすることを目的としていて、環境に合わせてそこで生き抜くためにそういうものを無意識に欲したりするのだなと思った。

 

東京に住んでいる時に猛烈に自然が恋しくなってそういった場所を訪れた時、思い切りカラダが緩んでいく感覚、リラックスできるような、深呼吸できるような、カラダが喜んでいる!的な感覚になった。大変ありがたいことに、私はそんな感覚になれる環境に、いまは毎日いる。ふだんの刺激物のない完全無防備で生きられるこの「自然界モード」から「ここはTOKYOだ!」と体と心を「都会モード」に切り替えて(?)荒波にのまれないように踏んばる。もしくはそういった東京のうごめくパワーに対しての「鈍感力」たるものが生き抜くコツ(?)になるのかもしれないとかも思った。去年、東京から札幌に移住した時にはそんなこと感じなかったのに、東京生活の2度目のリタイア後は、こんなにも異空間のよう。

 

 

そして山の上に戻ってからは、自然の恩恵や今の環境のありがたみを、お茶をしばきながら噛みしめる日々を送っている。

 

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Wi-Fiも知り合いもいない山で濃厚なひとりの時間を過ごしているせいか、すでに世間とのタイムラグが発生し、もう今年の総括たるものをし始めている。2017年が幕を開けた時、今年の目標は「流」にした。「流れに身を任せ、流れに乗る」という意味でこの字に決めて、この字を書き初めで大きくそれを書いたのだけれど、振り返ってみると今年は「諦」な1年だったなと思う。流れに身を任せ、流れに乗るためには、諦めなくてはならないことがたくさんありすぎた。とてもくだらないかもしれないけれど、どんな人間でありたいとか、人からどんな風に見られたいとか、家族への思いとか、仕事とか生活とかその他うんぬんまで、とてもしょうもない基準(当時はMAXで素敵なプランだったけど)で決めていたこと、それらを遂行し続けることを諦めた。

いま思えばこれら全部重たいもので、全部どうでもよかったなぁと思うものばかり。ほぼほぼ捨て去った今は、空が抜けたように清々しい。それらを捨て去る直前には、今まで大切にしていたぬいぐるみを焼却炉に投げ込まなきゃいけないみたいな気持ちになっていた気がするけど、捨てた後には両手が空いてるヤツしか乗れないイケてる乗り物にライド・オンできるみたいな、そんな「流れ」に乗った感はとてもある。どこに続いているのかはわからないけれど、流れ着いた先がこの山の上ならば、もう何も心配することはない気もする。

 


好きなものと嫌いなもの。

先日の東京ステイに某日、とても不思議な感覚に陥った日がある。じぶんの目の前に広がっているものたちを、自分の目線からではなくて、別の画角で見ていて、「これが今のお前だ」と言われたような感覚になった日があった。視界が歪んだような、起きてるのに夢をみているようなおかしな感覚だったのだけれど、それを見せつけられた時に、これは1つも例外なくすべて私がこれまでに選んできたものたちなのだなと、勝手に理解した。もう捨てたと思っていたものも、なんとなく放置していたものも、好きだと思って身の回りに置いていたものもMIX状態だったので、せっかくなので頭の中を整理しているもの要らないものみたいなのを断捨離みたいオラオラと書いてみました!

 

 

1.寒いのは無理になったから、温かい場所にじぶんを置きましょう。
暑いのは耐えられるけど寒いのは耐えられないカラダなのだと思い知った。寒空の中に投下された瞬間から、全身からエネルギーが漏れまくる。脳内が2億回の「寒い!」で埋め尽くされる。道民は我慢強いからこそ寒さにも強い。でも我慢することを諦めた道民には、寒さは猛威でしかない。とにかく、カラダが冷えた状態だと、自分がやらなきゃいけないことは目の前の誰かより「生存すること」にフォーカスされてしまうので、わたしはそんな環境では、周りにいる人を誰一人として幸せにしてあげられないなと思う。季節は感じていたいけど、体温と己を置く環境は急ピッチで温めてとか思う。

 

 

2.最新家電や機械的なものに興味がなくなったけど、とても豊かな暮らしができている。
幼少期から家電が大好きで、設定やら配線やらを率先してやる子だった。家電の買い替えどきには「まだ使えるのになんで・・・!」と目に涙を溜めてお別れする。業者に回収される前日には家電の前で家族写真を撮るなど、家電コレクションみたいなのも作るちょっと変な子だった。今では量販店に行くとあの冷たい空気なのか飛び交う電波的なものなのかわからないけど具合が悪くなって極力行きたくない場所になってしまった。いまは電子レンジも電気ケトルも冷凍庫もWi-Fiもないけれど、その代わり「感じること」が丁寧になって、とても豊かに暮らしてます!

 


3.時間拘束はつらいから、瞬間瞬間の溢れる気持ちを放出してたい。
時間拘束の意味を考え始めたら、気分屋にはただただツライ制度だと思った。拘束されている間中、拘束されている意味と経緯を考えて、こうやって生きる選択肢をとった過去の自分を責める時間になってしまった。何か情熱的な何かが生まれる泉みたいなものが、そこに一つでもないと、心は途端に乾いてしまって、初期症状として顕著なのは笑顔が喜びからではなく筋肉運動でしか作れなくなる。いつでもやりたい気持ちが溢れ出るものにだけ、時間を割いて生きて生きたい。そういう生き方の選択肢ぐいぐい広げて、じぶんを最大限に生かしたいとか思いました。それには労働ではなくて、やっぱり作品とか何かを作って生きていきたい!と思いました。

 


4.愛想笑いをすると、表情筋がおかしな運動をし始めるから、リリースする。
愛想笑いをすると、笑うときに使用されるであろう表情筋を無理やり動かすからか、ずっとやっていると口角が痙攣し始める。いつの日か「真顔が怖い」と言われてから愛想笑い(表情筋を操作する)をするようになったのだけれど「笑いたくないときは笑わなくていい」ということを胸に刻んでいれば表情筋は常にリリースされる。それに加えて、人はデフォルトがしあわせな状態だと、何も考えていないような真顔の状態であっても、自然と微笑みを浮かべるようなやわらかい表情になることに気がついた。今から朗らかさを身につけていつか素敵なシワを作るカワイイおばあちゃんになりたいと思う。

 


5.ジャンクなものはあんまりいらない。その代わり、「自分の一部になって欲しい」と思えるご飯と味噌汁を。
アイスは年間200本くらい消費するくらい大好きで、揚げ物も大好きだったのだけれど、最初の話に戻ってしまうけれど、山の中に移住してからは全然食べたいと思わない。思考を紛らわす食べ物よりも、思考の明晰さみたいなものが欲しいと思ったら、この2つは私の中から消えてしまった。(たまに食べたくなるけど)
山中では、ちょっと大げさかもしれないけど、米粒1つ1つに命を感じるくらい、口に運ぶ食べ物に敏感になる。何が足りなくて何が要らないのかもすぐにわかるくらい、カラダの声みたいなのが聞こえる気がする。すると、健康法とか食事法とか特別勉強しなくても、自然と自分のカラダが教えてくれるような気がする。

 


6.何かを作っている時間と、好きな人と一緒にいる時間は欠かせない。
最近、何かを作っている時間は、他に何も要らないと思えるくらい自分を満たしてくれるものなのだということに気がついた。人生最大のタブーは好きなことをしちゃいけないみたいな、それで生きていけると思うなよ的な圧力のおかげで自分を押し殺すような日々を送っていたのだけれど、自分をそんなどうでもいいことから開放すればするほど、神様は何も禁止なんかしてないことにも、世界は彩に溢れていることにも気づいていく。すると、その辺に転がってる何かで何かできないかな的な「子供心」さえ復活してくる。 

 「何かで遊びたい」的な子供心を押し込めると、人は何かで遊んだり作ったりすることで自分を満たすことをしない代わりに、外に何か(人やモノ、自分に見合わない刺激的な何か)を求めるようになるのかもしれないなと思う。そう思うと、自分のやりたいこと(創作意欲は別にアートに限ったことではない)を世界中の全員がやり始めれば、世界は一瞬で平和になるのだろうなとも思う。

そして好きなことをして満たされている時に、それでも会いたいと思える人は、男女関わらずとても大切な人たちなのだと思う。そんな人たちとの時間は、勝手にエネルギーを何倍にも増幅させてくれる。そんな大切な時間をたくさん設けられるように生きて生きたい。

 


7.ゆったりとした音楽、絵をみたり描くこと、物語を書くこと。
パンクもロックもいいけれど、山の中では落ち着いて聞けるような、カントリーとかアコースティック系のもの、自然のリズムを取り戻せるようなゆったりとした音楽が聞きたい。 そんな音楽を流しながら、物語や文章を綴りたい。物語は、頭をひねって考えるというよりは、降りてくる的な感覚なのかなとか思い始めた。自分を消せば消すほど、作品は磨きがかかるのだということを、誰かに教えてもらった。うんうんと考えれば考えるほどに、自分の中のエゴイズムみたいなのが往往にして文面で踊りだす瞬間も見逃してしまいそうになる。焦らず、絞らず、丁寧に、降ろす。それでいいのだと思う。また、最近は絵描きさんに画材とか心構え(?)的なものを教えてもらっている。「これはアリだな」と思える絵を早くお披露目したい。

 


8.あたたかみを感じる色や質感のモノ、質の良い服。
木でできたもの、焼き物の器、その空間をロウソクで灯したようなあたたかさを感じるもので囲まれたい。寒色系を好む傾向があって、今まではクール&ビューティーみたいな自分を演出することに必死だったのだけれど(きっと誰もそんな風に思っちゃくれなかったのだろうけど)、そんなものはもう必要なくなってしまって、ほっこり系の色のものを好むようになった。尖ったものより丸みを帯びたもの。冷たいものより温かいもの。ゴワゴワするものより柔らかいもの。物も服も少なくていいから、長持ちするような質のいいもの。あとは、軽くて、動きやすさとか保温性とかの機能性と視覚的にも温まるような柔らかい色の服が欲しい。

 


9.利便性よりも心と体を休ませる静けさ
いくら夜は静かでも、都内では閉塞感やざわつきみたいなのを感じる。閑静な住宅街でも、人口が多いからか何かしらのうごめきみたいなのを察知してしまう人は少なくないのではないだろうか。人も、きっとイルカみたいに超音波的なのを頭かどこかから出していて、空間の広さとか人の気配とかそういう距離感めいたものの察知能力があって、生物的には人間はそれが本来ものすごい長けているのだと思う。自分がそこに馴染めないことに悩んだり耐え忍ぶ必要はなくて(逆にごちゃごちゃの中に紛れられる安心感というのもあるのかもしれないけど)、人間の繊細さをベースに置いて楽になれる静けさのある環境を探せば、きっと力んで生きなくてもいいような、深く息を吸えるような本当の意味でのON/OFFのある「安らぎ」は得られるのではないのかなと思う。

 


10.どんな日も帰りたいと思えるような包容力のあるお家。
家に帰れば自分を嬉しくさせるもの、喜ばせてあげられるもので満たされた家がほしい。どんな高級ホテルより、どんな絶景宿よりも、ここが一番最高に好きと言える場所にしたい。それは一日中引きこもっていたいとか、お家大好きとかではなくて、それだけ満たされる環境であったら、そこから生まれる何かはもっと素晴らしいものになるのではないかと思う。木のぬくもりも、あたたかみも、日差しもあって、将来的には子供が走り回れるような家と庭。木の枝に結びつけたブランコと離れの書斎。私は移動(旅行?)が大好きで、今年も移動しまくれたなとかなり満足しているので、これからもそんな生活を堪能していきたい。そして、出かけて帰ってきてもとびっきりの空間が待っているようなお家を、2、3年のうちに作りたい。

 

 

長々と書いてしまったけれど、本当はもっともっとあるのだけれど、スーパーざっくりとこんな感じ。言語化すると、なんだかじんわり嬉しくなる。 

 

きっと、これから選んでいくものたちは、いままでとははっきりと変わっていくのだと思う。だけど、そもそも「これがいい」と思うひとり一人の感性というのは、自分のファンタジーを現実に作り出すための材料収集のアンテナみたいなものなのだと思う。質や形、場所や環境、人種や人柄、全ての良し悪し好みは、あたりまえだけどおのおのの感性で1つ1つ選択されていて、現に過去に選んだものが目の前に見事に置かれている。それの選ぶ基準みたいなものは人の頭の中の世界が元になっていて、その世界は、例外なく全員が持っているファンタジーなのだ。何を描いてもよくて、どんなおかしな世界でもよくて、自分だけのファンタスティック!な世界を作り上げては、また作り直すことの繰り返し。そうやって自分だけの世界を目の前に作っていくこと自体が、「創造」なのかもしれない。

 

 

 

 

そう思うと、生きることがまた、嬉しくなる。

 

 

 

 

 

山の中より。