だいたい、感じてなんぼ

人生、自分の感じたものがすべて。あらがわず、しなやかに。

時間と空間を取り払うと「繋がり」がある。

トレーニングロードたる道がある。

それは山の中の家から駅までの道のことを指すのだけど、その道は雪がなくても尻で滑れるのではないかと思うくらいの急勾配で、下半身にはスクワットをしながら登っているかのような負荷が加わる。そこをゼイゼイハァハァ息を切らしながら駅まで歩いていたのだけど、最近では体力と筋肉が絶賛急成長中により、ほとんど肩で息をしなくなり、お得意の涼しい顔でその道を歩けるようになって、人とのすれ違いざまには「こんにちは(ニコッ)」と爽やかに言えるようになった。

 

このトレーニングロードは中級コースと上級コースがあって、自分の身体と相談しながらどっちかの道を選ぶのだけれど、上級コースは頭の中がモヤモヤしている時しか基本的に通らない(歩いているうちに全てどうでもよくなるという効果が得られる)。かつて東京生活をしていた頃に、運動不足を懸念してわざわざ大金払ってトレーニングジムに通っていた時期があった。久しぶりに目覚める筋肉細胞の叫び(筋肉痛)に耐えきれなかったり、ただそこに通っている自分に満足したことが相まってあまり続かなかった気がするけれど、今いる場所は、このトレーニングロードを回避するためにバス代(約200えん)を払わなければならない。お金の価値が逆さまになってしまったような気がした。いつかここから離れる日が来たら、出かけるだけで1日分の運動がまかなえる場所が良いなと思いつつも、「今日はもうあかん」と思う日のために、できたら回避経路(バス)がある土地に住みたいだなんて思う。

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かつて、ハゲに悩んでいたなぁ、ということを思い出した。ここに来てから、「飾る」よりも「素材を活かす」みたいなことにフォーカスしている生活をしてから、身体につけるものだとか、食べるものだとかに、ほんとにこれは必要なのだろうか?みたいに思うことが増えた。ここ最近は「洗う」ことに関して思うことが多くて、食器を洗う洗剤だとか、手や身体を洗う石鹸だとか、実はバイキンたちの勢力よりも、洗剤で私を維持する成分が結構流されてることが結果的によくないんじゃないかって思い始める。洗浄してるんだか補ってるんだか削ぎ落としてるのか消毒されてるのかわからんけど、「とりあえず洗う」っていうのだけで人は満足して、洗いすぎた身体は、本来もつ人間の機能みたいなのが低下してしまってるんじゃないかと、山の中で一人で暮らしているとそんな思考になる。 

 


私の周りには、ノーシャンプー派の人が意外と多い。ノーシャンプーはその名の通りシャンプーを使わずにただお湯だけですすぎまくるスタイルなのだけれど、私の一旦ハゲ散らかした頭は非常に繊細なためシャンプー選びが大変で、その時ばかりは過保護な親の化身のようになる。市販のシャンプーは洗浄力が高すぎて繊細すぎる我が頭皮にはまず使えない。かつては一般的なサイズで7千円〜1万円くらいするシャンプーを使っていたけれど、シャンプーがなくなったタイミングでノーシャンプーにしてからは、なぜか抜け毛が減って、毛が太くなった。髪もサラサラだけど艶が増したように思う。

 

シャンプーをしないから、髪から俗にいう良い香りはしないけれど、皮脂を根こそぎ流しまくった後に分泌される皮脂のニオイもしない。「女の子は生理になったらシャンプーを使わないほうがいい」とか、頭皮と子宮は繋がっていて毛根が敏感になるから子宮にもよくないとかなんとかという、その辺は人体の不思議的な構造になっているらしいのだけど、それがもし本当なら、向き不向きもあるのだろうけどノーシャンプーにしていい感じになるなら、頭も子宮も健やかで、外部からの刺激におののくことなく本来の生命活動に戻るというステキな循環が起こり始めるような気がする。

 


受け取ること。受け渡すこと。 

最近、人に「好きだ」と言われた。なんだか、非常に嬉しい気持ちというか、春風が吹いたというか、心のどこかにふわりとお花が咲いたような気持ちになった。いつもはまず「困った」という思考が前面に出てくるのだけど、すんなりと深層部までその言葉は届いた。相手がどうこうは抜きにして、私は同じ気持ちになることは今のところできていないのだけれど、好いたり好かれたりするのは、世界に彩が増すというか、とてもステキな気持ちと時間だなと思う。誰かから何か言葉をもらったとき、自分自身のことを好きだと思えていたり、「これが大事だ」と思えていたり、そういう自分自身の中にある思いや言葉は、人はすんなりと受け取れるのかもしれないなと思った。そしてすんなりと、「ありがとう」と言えるのだと思う。

 

先日、SNSにこんなことを書いた。

 

己の感性は、捨てたもんじゃないなぁと思えることが最近ほんの少しだけれども増えてきた。本当にたまにだけれども、何かしらの表現や言動など、今年は褒めてもらった記憶がいくつか鮮明に残っていて、それでも全体的に少しだけ増えた気がする。 

私は褒めてもらえると嬉しい。褒め言葉を受け取ることは、なんだかお花を受け取るときみたいにくすぐったくて、ついまっすぐ受け取れなくなってしまいそうになるけれど、目をそらさずにその言葉をよくよく聞いていると、なんだか褒め言葉というのは、「花束みたいな言葉」だなぁと思うことがある。そう思うと、私はうれしくなって最近はそれを両手で受け取ることにしている。(褒めていただいた対象物(技術的な部分とか)が世間的にどうであるかはさておきね。)
 
もしかしたら、ただ単にとんでもない受け取り上手になってしまっただけなのかもしれない。「自惚れ」という言葉があるけれど、私の母なんかは私が自惚れた奴にならないように、社会から叩かれた時に傷つかないように、私が誰かから褒めてもらった時には、わざと真逆のことを言ってくれていた。それからは謙遜の塊みたいになってしまっていて、いつしか褒め言葉をいただいたときには、「そんなたいそうなものは受け取れない!」とグッと手を握りしめて、自分の爪の食い込んだ跡が手のひらに残るみたいだった。そういった謙遜モードというよりも、それを通り越して相手にそう言わせてしまった「申し訳なさ」みたいなものまであったようにも思う。
 

でも今は、たとえそれが身の丈に合っていようとなかろうと、目の前の誰かから差し出された「花束のような言葉」を受け取る両手は、いつもフリーダムに開放していたいなと思う。 受け取れば受け取るほどに、不思議とその花束のような言葉を、今度はだれかに贈りたくなって、そこから愛おしき循環が生まれる。 誰かを褒める人の心には、いつも多種多様な花が咲いているのだな、と思う。

 

 

今回の話とは全く関係ないのだけど、受け取られずにとりこぼされてしまった言葉は、誰の手にも渡らずに依然として宙を舞ったままだけれど、でも一度事実として起こったことは、たとえそれが発せられたたった1つの言葉であったとしても、消えてしまうこともないんだと思う。時も状況も変わったとしても「あの時はそうだった」ということだけは確かに残るのだと思う。たとえその時は理解不能でキャパオーバーな言葉や事実が飛んで来たとしても、時間が経ってから、それらを理解できたとき、受け取る器ができたとき、その言葉はちゃんと受け取られるまで待っていてくれてたんだなと、うれしくなると共に、ものすごく人間臭さみたいなものを感じてしまう。

 

頭の中に巡っているファンタスティックな妄想世界の一部や言葉も、本当はもうそこにあって、ただ受け取られるのを待っているのかもしれない。受け取れるものが増えるほどに、表情も存在も、どんどん柔らかくなるんじゃないかとも思った。

 

 

「寂しさ」には2種類ある。

山の中で、寂しさ悶絶級!な日々を送って来たけど、引っ越して2週間を経過してからなんとも思わなくなった。急にこの空間と仲良くなった気がする。寂しさとはなんだったんだろうかと思うけど、大きく分けて2つあって、「自分の声を聞かずに耳をふさぐことで起きる」ものと、「時間と空間を超えられなくて起きる」ものの2つあるなと思った。

 

前者の「自分の声を聞かずに耳をふさぐことで起きる」は、自分が本当はどうしたいのか、何がしたいのかなど、自分の欲望に耳をかさなくなればなるほど、寂しさの穴は広がる。誰かがいない寂しさとか、何かがない寂しさとか、具体的に足りないものがあるから「寂しい」というものではない、心を「外にある何か」で埋めようとしている分だけ、きっと強く感じる寂しさで、本当はなにか欲しいのかを問うような、自分と対峙することでしか埋められないものなんだと思う。

 
後者の「時間と空間を超えられなくて起きる」というのは、今その人がいない(つながれない)こと、目の前に(同じ空間に)その人がいないことを指していて、この時間と空間に囚われている時に、人は「寂しい」と感じるんじゃないかとか思う。唯一共有できる時間と空間に囚われているとき、この自分の存在する場所がすべてみたいな感覚になる。 だけど「時間」と「空間」と取っ払ったところには、命の根源みたいな、全ての縁の結び目みたいな、その人とのつながりを感じることができるんじゃないかと思ったりする。

それは非常に感覚的なものなのだけど、その時間と空間を取っ払ったところにある、その縁の結び目みたいな所に触れられた時に、私はひとりじゃないなと思える。共に過ごす時間ばかりが意味を成すのではなく、共に前を向いて歩むこと。どこかで繋がりを感じること。その繋がりみたいなものを信じること。相手がどうこうではなく、自分の気持ちが定まれば定まるほどに、それは確かなものになるということに最近気がついた。それはまるで、ただ想うだけで一つの感情が完結するような感覚のよう。そして最後は、その人の幸せを祈るような、満たされた気持ちになります。

 


でも、それでもどうしようもなった時には、ついつい連絡をしてしまうのであります。

 

 

 

山の中より。