だいたい、感じてなんぼ

あらがわず、しなやかに。

生の際立つ死への誘い

ここ数日、いろんな力が集まり「せーの!」で私を殺しにかかってくるような感覚でございます。あまりのフルボッコ感に、ちょっとした死への憧れみたいなものを抱くようにもなりました。新境地への誘いに抵抗する術はなく、ただその感情の波にゆだねるばかり。今日ここに記すことは、この波を内側から外に流すというか、いい感じに「吐き出すため」でしかないので、軽く流す程度に読んでいただけると幸いであります。

 

本日、こんなことを言ったらたいへん不謹慎なのですが、葬儀屋の前を通りかかった時にちょうど棺が目の前を横切るみたいなシーンに遭遇し、「先にアガリやがってずるい。」みたいなことを思ってしまいました。(たぶん集まった親族たちの、お疲れ様、みたいな、悲しみよりもほっとしたような顔をたくさん見たからなおさらかもしれない。)さらにそのタイミングで両親に実家に帰省したら車を貸して欲しいと交渉をしたところ、「もらい事故が多いからやめておけ」的なことを言われました。昨年は真冬の運転にも何一つ文句を言わなかったにも関わらず、なぜかここにきて死を案ずる両親の親心に「私にも死ぬ自由をください。」みたいなことを思いました。アガリがあることの喜びみたいな、それをなくしてどうやって生きられるかバカ野郎みたいなことを思いました。この死への憧れみたいなものに深刻さは微塵もないのだけれど、生と死は常に同時に己の中で起きているということを思おうと、生きたいと思うことも死にたいと思うことも、それ自体はどちらも同じ。だけど、瞬間の死を感じずに生を実感するはできないだろうみたいな、いままでに感じたことのない怒りみたいなものが、そのとき内側からひっきりなしに溢れてきた。

 

念のためもう一度言っておくけど、別に死にたいわけではない。今は1日中自分の中のヴァンパイヤ的な闇の存在が光に照らされてのたうち回っているというような感覚なだけ。「闇は闇でいい」みたいな、それによって太陽は際立つのでしょう?と言い逃れ続けた結果、先日衝動的に飛び立った沖縄のとある離島で味方につけたここでいう光みたいなものが一斉に浄化活動を始め、エヴァンゲリオン使徒ばりに自分の体と一体化した闇と共に苦しみを味わい、共にのたうち回っている。といえばわかりやすいだろうか。これが年末から四六時中続けば死にたくもなることはちょっとは想像していただけるだろうか。この往生際の悪さが、その苦しみを際立てているという自業自得な愚かさを、哀れんでいただけるだろうか。ただ、その反動なのかはわからないけれど、どうせなら「鮮やかな死を迎えたい」と、ほんの少しだけど、生に対してスポットライトが当てられそうなターンに足を突っ込みつつある。

 

この日々のあらゆる浄化(死)は、「すべては許されている」ということへと繋がり、それは「すべてはもう存在している」ということを経由して、「真実は、お前が知っている」ということを同じようになぞってそこへ落ち着いてゆく。さらにその先には「すべてはお前を完成させるため」というニルヴァーナ感溢れる甘い言葉へと続く。

 

 

死が際立つことで生が際立ち、時間という概念は瞬間の連続へ移行し始めている。

このまま死への憧れがどこに辿り着くのかはわからない。

 

けれど、その「鮮やかなる死」が、どうか「執着のない生」でありますように。

 

そして鮮やかなる死を、私の最期に迎えられますように。

 

いまはただ、それを願うだけ。

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