だいたい、感じてなんぼ

あらがわず、しなやかに。

to the future without me.

今、お伊勢にいる。


趣味の神社仏閣巡りが終わってしまった今、伊勢に来たところで何も見るものがない、と思ってしまった。神社仏閣巡りの前は、何が好きだったか。お店巡りだ。どこに行くにも、人にはみつけられない素敵なものを見つけられる目を持っていると思っていた。でも、いま見えている景色は、なんだろう。見たいと思うものは特にない。良いも悪いもない、ただそれが在るというような、生命を俯瞰しているような感覚だ。それでも神気めいた場所は好きで、参拝することもなく、神社の広大な敷地を歩いている。


自然と繋がると、自分の深いところが俯瞰して見えるようになる気がする。神気めいた場所では、より深く。そこで見せてくれるのはいつでもまぎれもない真実なのだと思えてしまうほど、それは本質的なもので、自分が目で見ている景色のそれとは異なる。長らくそれを突きつけられると、いよいよ受け入れざるを得なくなる。抵抗も虚しく、この長いターンもついに終わりが近づいていることを思うと、ずっとこの時を待っていたはずなのに、なぜだかこんな、寂しい気持ちになった。

 

古いものを持ち続けると、腐った果物と一緒に入れられた他の果物にカビが移るみたいになる。ただ目の前にないだけのものを「存在しない」と嘆いていると、空白を創造しているような気分になる。水面下で終わってしまっている人間関係を長引かせると、「誰かの本当」を邪魔しているような気持ちになる。創造のエネルギーを圧し殺せば、それは己を抉ぐるような破壊のエネルギーとして体を蝕むような感覚になる。

 

もうすぐ終わりが来る。
私はきっと、ヤケドがしたかったのだと思う。
危険めいたことが、好きだったのだと思う。生産性のないことに、胸をときめかせていたのだと思う。火を見ては、飛び込んでしまう性質で、それは創造性ではなく、ただの好奇心でしかない。
今まで形成してきたものは、なんだったのだろう。「瞬間の幸福」に、どれだけ命をかけて来たのだろう。この瞬間の幸福を追求する過程で、誰か一人でも、幸せにすることができたのだろうか。愚かさの塊のような己を目の当たりにしては、もうこれは、これからの時代には機能しないのだなと思う。そんな愚かさの塊だとしても、その刻の終わりが来ると、なぜだかこんなに寂しい。

 

もうすぐ終わりが来る。
新しい世界は、もう始まっている。もう後ろへは戻らないことを思うと、愚かさがなぜか美しさに見えて、1つ1つに別れを言いたくなる。
それでも、これでもう終わりにしよう。
この世に生を受け、この次元の境目を体験できたことは、きっとこの光に刻まれる。

この先の未来は、明るいものでしかない。この日が最も愚かであった日だと、いつか気づくのだろう。

 

これから「私」のいない未来が、本当の世界を見せてくれる。

きっとそれは想像もできないくらい、明るい未来。

 

さよなら私。