だいたい、感じてなんぼ

あらがわず、しなやかに。

『祈りの声よ、果てまで届け』

肉声には、必ず ” 心の声 ” が乗っていると思っています。
だれかの肉声(言葉)と心の声が一致しないとき、その声はたちまち「不協和音」になる。
それは、矛盾を生みだしながら宙に放たれ、目の前にいる相手へ何かしらの違和感を与えたり、届けたい場所まで思いの届かない、「力の奪われてしまった声」になってしまうのだと思います。
そして、近くにいる誰かの叫びや声を、代わりにもっと遠くまで届けてあげたいと思わせる力、遥か遠くまで届く力を持つのは、きっと心のさらに深いところにある「祈りの声」なのだと思います。

これは、その「祈りの声」を題材に描いた短編物語。

 

 

※この作品を、小松ユウイチくんに捧げます。

設定はフィクションです。

 

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届く声、届かぬ声。大きな声、ささやきの声。

 

祈りの声は、静かにしなくちゃ聞こえない。

 

さぁ、アタマをしずかに。こころをおだやかに。

 

聴こえた途端に、たちまち世界はグルリと変わる。

 

見える景色はオワリからハジマリへ。臨む景色には闇から一筋の光。

 

己のその深みに、刻まれた祈りの声が、いまこそ目を醒ます時。

 

祈りの声を、届ける約束の時。

 

まだ誰も知らない、遠い世界の果てまでも。

 

 

 

さぁ、耳を澄ませてごらんよ。

 

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「あぁ、今日もまた散々なステージになってしまった・・・。」

 


華やかに装飾されたステージに向けられる驚くほど疎らな拍手の中、ギター片手に一人立つユウイチはひどくがっくりと肩を落として呟いた。

 

(それより何より、今日の俺の声のこの有様と言ったら・・・。)

 

芳醇なウィスキーができそうな落ち着いた色の木材で建てられたロッジ風のこのクラブの観客席には、丸テーブルと椅子が並べられていて80人ほどは裕に入ることができるのに今日は閑散としている。ステージが終わるや否やすぐに観客に背を向けてしまったユウイチに、この店のマスターは心配そうに大きな一枚板で出来たバーカウンターから駆け寄り、彼の背中に向かって声をかけた。

 

マスター「ユウイチ、一体どうしたんだ。最近変だぞ。何かあったのか?」

 

ユウイチ「いや・・・なにもないんです。ほんとうに、すみません。」ゆういちは目も合わせず、片付けをする手を止めることなく言った。
正確にいうと、自分の中から何かが溢れ出してしまいそうで、今日という今日ばかりは目を合わせることができなかった。

 

 

 

違和感を一番に感じているのは、ユウイチ本人だった。
ユウイチは、この街では名の知れた若手の歌唄い。街中の至る所にユウイチのポスターが貼られていて、昼間歩けば見知らぬファンに声をかけられることも少なくなかった。自ら作詞作曲を手がけたラブソングや失恋歌のヒット曲をいくつも持っていて、人気層も幅広く、特に彼の歌に酔いしれる者は知らずと街に溢れていた・・・はずだった。 ただ、ここ最近では、単に絶頂期が落ち着いただけとは到底思えないほど、ユウイチは何をやってもうまくいかない。失恋歌の新曲はレーベル側の複雑なトラブルがあってリリースは当分先延ばし。曲作り1つとっても、かつてはスラスラ出てきた旋律は、頭のどこかで詰まりを起こしてしまったかのように浮かんでこない。買ったばかりの革ジャンは釘に引っ掛けて破けるし、夜には酔った友人にも悪態つかれて、つい取っ組み合いのケンカ。デビューの時から使っていたお気に入りのギターは先週壊れてしまったし、それにステージはこの有様。そして、恋人のサラとだって・・・。異変を感じずにはいられないほど、ユウイチを構成していた歯車は一気に狂い始めていた。

 

この状況にヤケを起こしたユウイチは昨晩、街一番の大きな川に向かって、まるで叫ぶかのように自分の歌を声が枯れるまで熱唱した。その歌は大切な人を想う恋の歌だったが、歌ってるときにユウイチにはそんな気持ちは微塵もなかった。こんなことをするなんて、いままで一度たりともなかった。だけど、そうでもしないとユウイチの心の中に溜まりに溜まった鬱憤が、不意なタイミングで溢れ出てきてしまいそうになっていた。何もかもを蹴散らしてしまえと言わんばかりに散々に歌った挙句、喉を痛めてしまった。おかげで今日は、長年メンテナンスのされていない錆びれたパイプを通ってきたような声のまま、ステージに立つことになった。

 

もちろん何かを吐き出すように目一杯叫んだところで、状況も心境も何一つ好転することはなかった。それどころか問題は増えるばかりで、昨夜のように感情的になって抑えきれないようなことも、次々に起こるようになった。まるでユウイチの中の深い深いところ、日常的に胸の痛みや、喜びを感じる場所のもっともっと深い場所で、今まで見ないように、気づかないように蓋をしていた「まだ生命(いのち)のある何か」が潜んでいて、それが見つけて欲しそうにうごめき始めたような気分だった。今までにもちょこちょこそんなことが過去にもあったような気もしたが、何でもかんでも見て見ぬ振りして胸に押し込んでしまうのは、ユウイチの悪い癖だった。

 

これまですべて順調にいっていたはずのに、一体どうなってしまったんだ。

 


「はぁ…。」

 


一通り片付けが終わったユウイチは、大きなため息をついてバーカウンターにドサッと勢いつけて座り込んだ。そしていつものウィスキーを若いバーテンダーに頼み、手元に置かれたそのロックグラスの中の浮かぶ氷に視線を落としたまま、また考え込んでしまった。

 

すると、ユウイチが来る随分前から、バーカウンターの左端に座わっていた男が、酒に口をつけたユウイチに気づいて声を掛けた。

 

カウンターの男「やぁ。今日のきみの声は、ギザギザというか、ガタガタの声だな。なにか、魚の骨…いや、獣の骨でも喉につっかえているようだ。ハハハハ。」

 

嫌味ったらしい言葉の主にジロリと目を向けると、その席には黒のレインコートに寒色のチェック柄のベレー帽を被る、グレーヘアで、歳は60近くに見えるが、背筋の通っていて品格を漂わせる男が座っていた。嫌味ったらしい言葉とは裏腹に、和かな表情。水源のようなとても澄んだ瞳に、深くやさしいシワを寄せていた。警戒心を持つ訳では決してなかったが、なんだか妖しげで不思議な空気感を漂わせるその佇まいに、やけに存在感があった。


彼は、この店の昔からの馴染みの客だという。だけど、この独特な後ろ姿にもこの顔にも、そしてこの印象的な瞳にも、一切見覚えはなかった。ユウイチは彼の言葉に一瞬ムッとしたものの、彼のその瞳を見るや否や、落ち着きを取り戻してしおらしくこう返した。

 

ユウイチ「あぁ・・・、そうか。すまない、こんな恥ずかしいステージをお披露目してしまって。」

 

カウンターの男「いや、なに。良い歌唄いにスランプはつきものさ。」カウンターの男は、先ほどと変わらぬ表情で言った。

 

ユウイチはその言葉を頭の片隅に置きながら、自分の今日のステージを思い返してなんとも言えない気持ちになった。自分を責め始める思考回路をショートさせるかのようにグイッと酒を飲んだ。

ガヤガヤと賑わう店内とは別世界かのように、このカウンターにだけしばらく沈黙が続いたが、不意にカウンターの男は言った。

 

 


「この街の西の外れ。夕暮れ丘の向こうに、いい医者がいるよ。そこへいってごらん。」

 

 


ユウイチには、なぜだか周囲の喧騒を一瞬ピタリと沈めたかのようにそのカウンターの男の言葉だけが浮き彫りになって聞こえた。

(・・・夕暮れ丘?ずいぶん辺鄙(へんぴ)な場所にあるもんだな。しかもその向こうだなんて、ここからかなり遠いところだ・・・。しかし良い医者ってどういう類の医者だ?声の話をしていたからやっぱり喉の専門医か何かか・・・?)

そしてユウイチがその医者についてもっと詳しく尋ねようと、すぐに項垂れていた頭を上げて彼の座っていた方に目を向けたが、彼が座っていた椅子はカウンターの下にしっかりしまわれていて、もうそこに男の姿はなかった。

 

 

 

 

 

 

散々感傷に酒に浸ったあと、ユウイチは家に戻った。家の中には、まだ灯りがついていた。


「・・・ただいま」

 

ソファで本を読むサラがユウイチに気づくと、手を動かすのを止めて、やさしい目で言った。「あら、お帰りなさい。」


恋人のサラとは2年前からこの家に一緒に住んでいる。サラの眼差しには、いつもどこか落ち着きと、見守るような温もりをも感じることができた。そして何より、健気で、可愛げのある女の子だった。 サラと出会うまで、ユウイチは恋人と長く続いたためしがなかった。ユウイチは自分のペースを崩されるのを最も嫌った。昔から音楽活動につい夢中になってしまう。恋人ができても、ただでさえ忙しく、構う時間がなくなるばかり。そんな余裕のなさとは関係なしに、無意識のうちに自暴自棄になることがあって、「親しくなった人間はいつかは立ち去ってしまうもの」と、そんなどこか諦めの心が相手の感情を逆撫でするかように、ぞんざいに扱ってしまうことも少なくなかった。サラはかれこれ、今までで一番長く続いている恋人だ。 正確に言えば、そんなユウイチにそれでも寄り添ってくれている恋人である。


サラ「喉、まだ辛そうね。大丈夫?すぐにスープを温めるわね。」

サラはコンロに火をつけてコトコトと音を立てる黄色の鍋を大きな木のヘラでゆっくりと混ぜた。

 

「あ、そうそう!あさってのことなんだけどね、ちょうど昨日見つけたんだけど、風吹乱れ通りの向かえ側にできたユウイチの好きなピコリタン料理のお店で・・・」


サラは本当にユウイチのことが大好きだった。ユウイチ自身も身をもってそれを感じていた。このスランプ続きの中、夜遅くまでご飯を作って待っていてくれていて、無理なお願いをしたとしても何一つ文句も言わずにサポートしてくれている。だけど、それが時々、なぜだかやけに腹立たしくなるように感じる時があった。ある一定以上の心理的な距離にその存在があると、イライラし始めてしまう。今日のユウイチはまさにそうで、まるでユウイチを取り巻く空気にはひどく磁気を帯び、触れるもの全てに感電させてしまいそうなほどだった。そのくらい、ユウイチには余裕がなかった。ユウイチはサラの話を遮るように言った。

 

ユウイチ「・・・放っといてくれ。」

サラ「え・・・。でも、その日は大切な・・・」

ユウイチ「放っといてくれと言ってるだろ!」


ユウイチは悲しげな顔をしたサラの前を横切り、自分の発した言葉とは裏腹に、何もかも全て自分のせいだと、責める気持ちで胸がぎゅうぎゅうになったが、かと言ってもう謝ることもできずに、そのまま2階の自分の部屋のドアをバタンッ!と音を立てて戻った。両手で顔を覆ってため息をつきながら電気もつけずにベッドに腰掛け、そのまま横たわった。そして、どうか今日の出来事が全てなかったことにして欲しいと願うかのようにゆっくりと目を閉じ、まるでベッドに吸い込まれるように眠りについた。

 

 


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あくる日の朝。
ユウイチの声は、案の定、もとに戻っていなかった。

 

秋が過ぎ、これから冬本番を向かえつつあるこの季節。あらゆるものを萎れさせてしまうほどカラカラに乾いた空気が、ユウイチの錆びきった鉄パイプのような喉を辛うじて潤していた水分までも、無慈悲に奪っていった。

 

ユウイチ「・・・事態は悪化するばかりだ。」

 
問題は山積みのまま。だけれど、このまま周囲に心配を掛け続けるわけにはいかない。次のステージまでにこの声だけはなんとかしなくてはと思い、歯磨きをしながら眉間にシワを寄せて考え込んだユウイチはようやっと腹を決めて、昨日から頭から離れない、カウンターの男の言っていた夕暮れ丘の向こうにある医者に会いに行くことにした。 

 

ユウイチはコートを羽織って、西のはずれの夕暮れ丘を一人で歩いて行った。 
夕暮れ丘はとても広大な丘で、東側の大きな森とまだ人通りの多い公園のようなエリアを抜け、奥に歩けば歩くほど手付かずの野原が広がってゆき、舗装されていない道の両サイドにはススキやたんぽぽが咲いていた。街から離れ、西へ進めば進むほど、空気は澄んでいくように感じた。ある程度進むと大きく空が開けている場所があり、夕暮れ時にはうっすらと湾曲した地平線に夕日がとっぷりと沈んで行く。あまり人通りは多くなく、たまにすれ違う者たちにその医者について尋ね、少ない手がかりをもとに、その医者のいる場所へと向かった。しばらく道を歩いて行くと、手付かずの茂みが一旦途絶えたところに、ポツリと佇む一軒の民家のような建物を見つけた。

 

 

「Dr.クリスピーサンドの診療所」

 

 


裸電球のライトが一点ポツリとやや控えめにその木でできた立て看板を照らしていた。平屋根の上は多肉植物やハーブなどがびっしりと生い茂って蔦が壁面に何本も伝っていた。暖炉の煙の上がる煙突。何本もの大きな丸太で継いだ木造の壁に、黄色く塗られたエントランスのドア。建物の横にある庭には、見たこともない薬草のようなものがぎっしりと生えていた。

 

ようやっとそれらしき建物を見つけることができたが、他に医者らしい佇まいの建物は一軒も見つからず、直感的におそらくここに違いないと、そう思った。

 

入り口にはベルがなく、ユウイチはドアを数回ノックした。けれど、しばらくしても全くの無反応なため、おそるおそるドアを開けてみると鍵が開いていたので、中の様子を覗いた。そこにはなんの変哲も無い玄関があり、すぐ目の前の壁には吊るされたプレートに「診療室はこちら」と書かれていて、その下に赤で矢印が引っ張ってあった。ユウイチは頭でいろいろと思考を巡らせながらも、いまさら引き返してもどうしようもないと思い、矢印の向く方へを歩いて行った。すると突き当たりの丸いドアノブのついたドアにまたプレートがぶら下がっていて、今度は「どうぞ」とただその一言だけ書いてあった。そのプレートをちょっと裏返しにしてみて見ると「診療中」と書かれていたので、ここが診療室だとわかった。

 

(ほんとうに、だいじょうぶなのだろうか・・・。)

 

再びユウイチはおそるおそる、ゆっくりと扉を開けると、そこにはクリーム色に塗られた壁に木でできた机と、その前に座る、ふくよかで白のポロシャツに余裕のあるジーンズを履いている男性が見えた。頭もヒゲも真っ白で、顔の大きさに合わない小さな丸メガネを下にずらして、机の上の紙に何かを書いていた。俗にいう、みんながイメージするサンタクロースが、12月以外はこのように過ごしているのだろうと思わせるような、柔和な雰囲気の人が身体の大きさに合わない椅子に座っていた。奥には木製の揺れ椅子と赤いレンガで縁取られた暖炉があってパチパチと炎が上がっていて、まるで絵に描いたような、ぬくもりのある暖かな空間だった。白衣はすぐ後ろのコート掛けに引っかかっていて、一通り書き物を終えてようやっとユウイチに気がついた彼は目に笑みを浮かべてこう言った。


ドクター「おっと。これはこれは、ようこそ。よく来たね。さぁ、そこに掛けてごらん。」

 

心地よく響くあたたかくてやさしい声だった。彼のその声でユウイチの緊張感はゆるゆると解け、ドクターの前にある椅子に軽く腰かけた。目線の高さで思った以上に背の大きな先生だったことに気がついた。

 

「さて、どうしたんだい?君の声に何かあったのかい?」口元はモッサリしたヒゲでよく見えないが、目はやっぱりやさしく笑っていた。まるで小さい頃に掛かった小児科の先生のように子どもに接するような態度だった。

 

ユウイチ「はい、この通り喉の調子が悪くて・・・。私は歌唄いなのですが、早急に治したいのです。」深刻というべきか切羽詰まったというべきか、そんな眼差しと、血相の悪い顔とガタガタの声で言った。

 

ドクター「あぁ、これはひどい声だね。聞いているだけで、そうだなぁ・・・僕に「悲しみ」という感情が生まれてくるよ。」

 

ドクター浮かべた表情はほんのちょっとだけ、同情めいたような、それでも少しおどけているようにも見えた。それを聞いたユウイチは、意表を突かれたような気持ちになった。

 

ユウイチ「か、悲しみ?あの・・・僕はただ、喉の調子がよくなればいいだけです。」

 

ドクター「ふぁっはっは。あぁ、そうだね。喉の状態もひどいもんだ。でもこれは、この庭にあるいくつかの薬草をきちんと塗ればすぐに治るだろう。 だがね、問題なのはその声に乗っている【心の声】の方だ。残念ながらもう君たちの学校で習うことはないのだが、楽器の音も肉声も、そして心の声も、すべて本質的には何かを動かす力を持ったエネルギーみたいなものなのだよ。耳で聴こえないような、言葉にならない声だって無意識のうちに人は感じ取っている。耳に聞こえる楽器の音や肉声だけじゃない、心の声は知らず知らずの間に相手には届いてしまう。今きみの声から伝わってくるのは、そういう類のものさ。」

 

ユウイチ「・・・。」

 

ドクター「どれどれ、もっとよく見てみよう。うーむ、そうだな・・・、君の心の声は、「悲しみ」の声、「寂しさ」の声、そして、「怒り」の声だ。君の心の声は実に表現豊かだ。まるでそれを叫びたがってたまらないみたいだね。」ドクターはひょんな行動をする健気な子供を見るように、にっこりを笑って言った。

 

ユウイチ「そ、そんなひどい声が?俺は比較的成功していて、順風満帆な人生を歩んでいると思ったんだけど・・・。」

 

ドクターは顔に合わない小さなメガネを再び下げて、カルテに何かを流れるような字でサラサラと書きながら、少しだけトーンを落としてこう言った。

 

ドクター「やぁ、それはとても素晴らしいことだ。でも、君のこの声からすると、きっとここ最近のきみは、何かあってもなかなか立ち直れなかったり、音楽に打ち込めなくなるような時間もあったんじゃないのかい?」

 

ユウイチにはその心当たりが有り余るほどにあって言葉に詰まってしまったが、それらを思い浮かべたユウイチの表情をドクターは返事として受けとめ、小さく頷いた。

 

ドクター「きみその3つの心の声は、どうやら君自身に起こった、それはもうきみにとって重大な、いつの日かの出来事をきっかけに発せられるようになったようだね。心の声、いや今はもう心の叫びのようだが。君は今まで、この心の声を無視するかのように、それとは全く違った性質の「アタマの声」で生きてきたみたいだけど、どうやらもう収まりがきかないみたいだ。」

 

ユウイチ「アタマの声・・・?あ、あの、声は喉から出るものじゃないんですか?」

 

ドクターはそれを聞いてまた目で笑い、机の引き出しから1枚の紙を取り出して、人間のような絵を書きながら説明し始めた。

 

ドクター「いいかい?声の出どころは2箇所ある。これは肉声を指すのではなく、それは君の望みの源でもあり、またその望みを叶えるエネルギーの泉そのもの。それが君の「アタマ」と「心」だ。基本的に、このどちらかの声の望みを君が聞いて、それを僕たち人間は、肉声(言葉)や行動で表現している。それによって君の周りを囲む環境やあらゆる状況を自分で創り出しているんだ。それが積み重ねた結果が、君のいま生きている世界だ。」

 

ユウイチは知らず知らずのうちに、どんどん話に引き込まれていった。

 

「まず、「心の声」のエネルギーは、喜・怒・哀・楽、好き嫌いがはっきりしていて、それは君の幸福感に直結している、幸せや自由を司る創造のエネルギーだ。まさに君の心を満たすための道しるべのような声だね。そこに耳を傾けた分だけ、君の心から望む世界を表現することができる。心の声は素晴らしい声なのだけれど、例えば「悲しい」「寂しい」だなんて心の声は特にそうだが、その声にその都度耳を傾けてあげないと、まるで小さな子供が拗ねてしまうかのようにずっとそれを叫び続け、君が耳を傾けるまで絶対に止まらない。そして、そのまま放っておけばいつか怒りに変わり、自分の心の声が作った世界を壊し始めてしまうこともあるんだ。なんせ心は、どの瞬間も幸せになりたがっているからね。

 

一方、「アタマの声」はとても恐がりだ。危険を察知し、変化を嫌い、正しさを好む。簡単に言えば、生命維持を主な目的とした、安心や安定を司る創造のエネルギーだ。アタマの声で創られるその世界は、その安心や安定を得るために、しなくちゃいけないことが山ほどあって、その上たくさんの禁止事項や制限がかけられている。なんせアタマは、間違っても死んでしまいたくないからね。だが、この声は心を満たすかどうかは直接的には関係ないんだ。 

 

そしてここがポイントなんだが、心の声よりもこのアタマの声の音量の方が大きくてとても聞き取りやすい。アタマの声で紛れてしまいがちな心の声だけど、その聞き取りが甘ければ甘いほど、君の心の満足度とは直接関係のない「アタマの声」でできた世界が、どんどん創り出される。

 

どちらの声も必要で、みんな一人一人がそれぞれこの2つの声が複雑にごちゃ混ぜになった世界を自分で好きに創って生きているのさ。だがさっきも言ったが、どちらにせよ、心の声は聞き取るのは少しコツがいる。本当は心の声に耳を傾けることをもっと知らなくてはならないのに、この国ではいつからか、子供の時からアタマの声をよーく聴くにと教育されるようになってしまった・・・。ただただ生きることだけが目的になってしまった。」

 

そう言ってドクターは今度は悪いことをした子供をみてガッカリするかのような悲しそうな顔になった。そしてドクターは最後にこう付け加えた。


「そして、この2つの声で創られた1人1人の世界を、さらに1つにまとめたのが、この惑星なんだよ。この惑星の問題は、残念ながらみんなの意識の集合体でもある。だからこの惑星で起こることに関係のないことなんて1つもないんだ。」

 

ユウイチはとても当たり前のことを聞いているような、その反対で、とてもすごい秘密の仕組みを聞いているような、そのどちらなのかも判断ができなかった。

 

ドクター「そうそう、あともう一つ。アタマの声の方が音量は大きいのだが、心の声の方が主張は強い。どういうことかというと、心の声を当の本人が聞き取れなくても、本人の自覚がないまま、肉声(言葉)や行動に乗って世界に発信されてしまうことがある。いや、知らぬうちに漏れ出してしまうというのが正しいかな。それが最初に言った、肉声以外に聴こえてくる、言葉にならない声のカラクリだ。心の声はいつだって正直なんだよ。 世の中には、自分や他人の心の声が、聴こえやすい人はたまにいる。そういう人は心のないカラッポの言葉、嘘や見栄、そして本音をすぐに見抜いてしまうのだよ。おっと、すまない。申し遅れたね、私はDr.クリスピーサンドだ。声を専門としている医者だよ。」またサンタのようにニコッとした。

 

ドクター「さて、長くなってしまった。話を戻そう。従来であれば、先ほど説明した通り、心の声はアタマの声よりも聴こえにくいのだけど、君の中で何か異変が起こって心の声が叫んでいるようだ。ふむ・・・どうやらこの心の声をどうにかしない限り、きみを祈りの声からどんどん遠ざけてしまう。そういうものはできるだけ早く対処したほうがいい。そうすればきみはきっといい歌唄いになるよ。」

 

ユウイチ「(ん?祈りの声・・・?)でも僕は、人の抱える「悲しみ」に添えるような歌を歌っているのです。だからこの悲しみは抱えたままでいいな。」

 

ユウイチの得意とするのは悲しみを誘う失恋歌だった。だからそれが心の声、つまり心から滲み出るような悲しみであるのなら、その感情の強さがより深まるような、相乗効果のようなものが得られる気がして、自分の歌にはぴったりだとも思い、ちょっとだけ良いことを聞いたような気持ちになった。

 

ドクター「ふむ、それはとても素敵なことだ。ただ、いまのきみがそれを抱えたままでいる必要はない。心が埋まれば、今度はその人の心の埋め方が分かるようになる。きっともう一つ向こう側の世界を歌えるようになるよ。その悲しみから誰かを救い出せるようなね。それに、君自身がその心の声をちゃんと拾わないと、今度は肉声や言葉とは裏腹なメロディを奏でるようになる。その心の声が大きくなると、心の声が悪さをして、きみのすること、表現することを次々と邪魔するようになるんだよ。それはたちまち「不協和音」になって、いつかは誰の心にも届かない声になってしまう。その心の声を聞いてあげるのは、残念ながら君にしかできない。」

 

ユウイチはここに来た時、てっきりクスリを出して早々に治してもらえるものだと思っていた。だけど、もはや自分の周りに起こっている数々のトラブルは、この錆びれた喉だけの問題じゃないことは、ユウイチも理解し始めていた。そして、これが歌唄いにとって一大事だということも。自分の中にある「悲しみ」の声は、相手に伝わる感情が深まるどころか、この心の声というのは不都合なこともすら起こり得るということを聞いて、ユウイチは少しだけ焦った。これ以上問題が増えては、全く手に負えなくなってしまうからだ。それだけはなんとかして避けたい。

 

ユウイチ「じゃ、じゃあ、どうすれば・・・。」

 

ドクター「その君の肉声に乗っかった3つ心の声を止めるには、声に耳を傾けることだ。心の声が叫んでいるその3つ感情に耳を傾け、辿ってゆけば、必ず君の心の叫びが生まれるきっかけとなった出来事に紐づいている。つまり、その声が発生する原因になった出来事を見つけてあげるんだ。何があったのかはわからないが、君は心の声をその時に聞き逃してしまったことが原因だ。だから心の声は聞いて欲しくて叫び続けている。きみ心にその感情があったということをしっかり見てあげれば、君の心は安心して、もう叫ぶ必要がなくなるだろう。君の抱えているあらゆるトラブルも、おそらく収束するだろう。」

 

ユウイチはドクターが今の自分がトラブルだらけなのをなぜ知っているのかも、もはや疑問にも思わないくらい自分のことで頭がいっぱいだった。そしてしばらく黙り込んだ後、ユウイチはこう言った。

 

ユウイチ「・・・本当にそれをするだけの効果はあるのでしょうか?なんだか30年以上も生きているのに今更過去を振り返るのも忘れてしまっていることもきっとあるような気がするし、それはとても果てしないような・・・それに、、、」

 

ユウイチは確かに現状をどうにかと思い始めていたのだが、その心の声の在りかを探すのは雲をも掴むような途方もないようなことのように感じたのだった。そしてついグダグダとやらない言い訳をし始めそうになっていることに気づいて、ドクターはユウイチに自信を取り戻させるように言った。

 

ドクター「きみはより良い歌唄いでありたいのだろう?それに、きみの声を聞く限り、きみは自分の辛みや悲しみを叫ぶために生きているわけでも、歌唄いになったわけでもなさそうだ。」

 

ユウイチ「そ、それはもちろん!」

 

ユウイチは即答したが、その言葉とは裏腹に、ほんの一瞬だけ、自分がなんのために歌唄いであるのかもすぐに思い出せなくなっていたことに気がつき、やや戸惑った。

 

ドクター「このままでは歌唄いどころか、まるで凱歌の歌えない嘆き者になってしまうよ。さっきも言ったが、心の声がおさまれば君はこれまで以上に良い歌唄いになる。それに、どうやらその心の声は、ある力が働いてもうそこにはいられなくなっているようだからね。遅かれ早かれ、ちゃんと聞いてあげた方がいい。」

 

ユウイチ「・・・?」

 

ユウイチは「凱歌の歌えない嘆き者」という皮肉な言葉に反応するのを忘れて、ユウイチは「ある力」の方が気になった。でもこの時はまだ、ユウイチにはこの言葉の意味がさっぱりわからなかった。

 

ドクター「おっと!こりゃ失礼!ふぁっはっは。気分を悪くしないでおくれ。そうそう、それを見つけるヒント、それはその心の声を刺激するかのような近くにいる人物や、ここ最近で一番心が揺れる出来事が、きっとその原因となった出来事を教えてくれるよ。その気持ちをちゃんと見つめてあげてごらん。それだけ心の声が叫んでるんだ。君が意識すれば、きっとすぐに気づくはずだよ。そしてもうこの過去から自由になる選択肢があることをきみが教えてあげるんだ。」

 

ユウイチ「わかりました。だけど、そんなことをして、ほんとうに声はよくなるのでしょうか?」

 

ドクター「なるよ。だいじょうぶ、何も心配ないさ。またおいで。」

 

 

 

 

 

ユウイチは、ドクターに処方された深い緑色で、見るからに苦そうで渋そうなドロドロの喉の塗り薬を受け取って、診療所を出た。


「心の声に耳を傾ける・・・。」
白い息を吐きながら、ユウイチは呟いた。

何度考えても、それはとても簡単なことじゃないような気がした。心のざわめきを見て見ぬ振りして平然を装うのは、ユウイチの最も得意なことだったからだ。
そうやって心当たりを探りながら歩いている途中、徐々にまた道も空も開けてきた。ふと視線をあげると、夕暮れ丘の西の空に広がる夕日は、地平線にとっぷりと沈みかけていた。黄色とオレンジ色の間の、卵黄みたいな美味しそうな太陽に、ユウイチは目を奪われた。

 

その夕暮れをじっと見つめながら、ユウイチはなぜ、自分が歌唄いになったのか頭を働かせたが、まだパッと思い出せずにいた。正確に言えば、歌唄いになった今、あと付けのような、メディア受けしそうなカッコイイ理由はいくらでも見つけられた。だけど、どれだけ思考を巡らせても、思い出そうと頭を捻っても、本当の最初のさいしょのきっかけを思い出すことができなかった。それは一部の記憶だけが欠落しているかのような感覚だった。それに、どこまで時間を遡ればいいのかも、わからなかった。

 

それを考えている間中、胸の中のうごめきは水面下でフツフツと湧き出るように動いていた。

悶々と考えながら、そして心の声の正体のことも時々チラつかせながら、ユウイチは夕暮れ丘からユウイチの住む街へと戻って行った。

 

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雲ひとつなく、星空の煌めく夜。

あれから5日が経った夜に、夢をみた。

自分がまだ幼い頃の記憶の夢。

ユウイチが目が覚めたのは、まだ太陽の気配も感じられない薄暗い朝だった。ベッドの中で天井を仰ぐまま、視線は何を捉えるわけでもなく、何を悟るわけでもないのに、頭の中はやけに冷静だった。

 

ユウイチ「キャロル・・・。」

 

おかしなほどそれは鮮明で、ただ一人、後ろ姿の女性が振り返ったタイミングで目が覚めた。ずっと思い出すことがなかったけれど、あれは間違いなく、キャロルだった。


キャロルのことを思い出そうとすると、胸が軋むように痛む。
だがそれに蓋をできるほど、もうユウイチにはそんな余裕はなかった。心の声がユウイチに見せたその夢は、ずっと抱えていたものを、大切な何かを、想起させる。
目を伏せたくなる嫌な記憶が、まるで口火を切ったかのように、次々と思い出されて行った。


「あぁ、そうだ。キャロルは・・・」


ユウイチが物心ついた頃、両親は夫婦で始めた事業が波に乗って順風満帆な生活を送っていた。
だけど、ある時から事業が忙しくなって両親は共にすごく遅い時間に帰ってくるようになった。慣れないながらも、手伝えることがあればと、ちょっとした家事の手伝いと年の離れた妹弟たちの面倒を見ながら、夜は母が作った冷えたご飯や、もっと時間のない時はレトルトのご飯が置いてあってそれ兄弟3人で食べた。2人が久々に早く帰ってきたかと思って嬉しかった日も、些細なことですぐに言い合いになるようになった。ユウイチは、いつも家族のバランスを取り持つ役だった。

 

とある日、家にナニーが来た。家のことをやるのがとうとう本格的に難しくなって、両親が雇った。その子は、焦げ茶の長い髪を結っていて、背のスラッと高く、子供みたいに笑う人だった。その子の名前は、キャロル・キャロットランド。彼女は大学院に通っていて、とても難しそうな勉強をしながら、ナニーのアルバイトをしていた。しっかり者のキャロルだったけど、ユウイチと話すときに見せる幼染みた心が、ユウイチとの距離がとても近く感じた。それが何より嬉しかった。 


キャロルはただのナニーとか、母親代わりというよりかは、ユウイチの友人で、まるで家族のように感じ始めていた。いつの日か来ることがあたり前になって、早くキャロルの来る時間、来る曜日にならないかと心待ちにするようになった。ユウイチはキッチンに立つキャロルの手伝いをしながらひみつの歌をふたりで歌って、それがいつもくすぐったい気持ちになった。とても幸福に溢れていて、たとえ学校であった嫌なことがあったとしても、この時間だけはそんなのも全部忘れることができた。ユウイチはこの時間が好きだったんだ。いや・・・、そういう意味では幼いながらに恋心が芽生えていて、キャロルのことが大好きだったんだ。

 

ところがある日、キャロルが庭の掃き掃除をしながら近所の人と少しだけお話していたときに、妹が家の中で大きく転んで頭をぶつけ、頭からたくさん血が出た。キャロルは大慌てで救急車を呼んで、結局妹の怪我は数針縫う程度で大事には至らなかった。両親が妹が運ばれた病院へ駆けつけたときに、キャロルは険しい顔をした両親と話していたけど、ユウイチにはそれが聞こえなかった。ただ、キャロルが顔を両手で覆って泣いているのだけ、柱に隠れて見ていた。

 

その日を境に、キャロルは家に来なくなった。どうしてこなくなったのかは、父も母も教えてくれなかった。そして、それに重なるように、両親の事業は大きく傾き始め、新しいナニーを雇うお金もなくなり、今度は家のことは全部、ユウイチがやらなくてはならなくなった。

 

お皿を洗ってる時間も、掃除機をかけてる時間も、洗濯物を干している時間も、ひとりで慣れない家事をする時間が、刻一刻とキャロルとのたくさんの糸を解いていく。

 

友人としても、家族としても、大好きな人としても・・・。あらゆる関係で編み込まれた幸せな時間の糸がシュルシュルとほどけていった。あとに残るのは直視するのは苦しいほどの虚無感と、残されてしまった哀しみ、孤独感。拠り所もなく、逃げ出したくて、甘えたくて、会いたくて、立っていることも辛くなったユウイチは、それでも毎日果てしない家事をこなすため、そして家族のバランスを取り持つために、その自分の心の声にも、その幸福な記憶そのものにも、無意識のうちに蓋を閉めた。今度は壊れないように。誰一人として、自分の周りから欠けないように。ただ、蓋をするどころか、ユウイチはすっかりその感情に飲み込まれ、その声をその先ずっと抱えたまま、生きることになってしまった。ただただ、歯を噛みしめて、傾かないように踏ん張る時間。それは下の兄弟が自分のことが自分でできるようになるまで数年間続いた。その余裕のない長い長い時間が、ユウイチに自分の心のうごめきを見て見ぬ振りをする癖をつけさせた。

 

あれからずっと、ドクターの言う「悲しみ」も「寂しさ」も、そして、それを見て見ぬ振りをし続けた「怒り」までも、知らないうちにユウイチは叫んでいたのだ。心の叫びの根源は、この幼少期のキャロルと家族の、辛く悲しい出来事だった。ユウイチは自立した後も、その記憶を振り返ることも、自分と向き合うこともしなかった。だけどユウイチは、歌うことのすばらしさ、心から溢れる楽しさだけは忘れることができなかったのだ。それが欠落した記憶の一部だったとしてもユウイチの中には残っていて、それはキャロットからの唯一の贈り物だった。もしかしたら、キャロルへの気持ちの強さと、感情の深さが、人の心に寄り添う力になったのかもしれない。

 

ユウイチ「あぁ…おれはずっとこれを抱えたまま生きていたんだな。」

 

3つの心の声の出どころが見つかって、ユウイチは一つ一つの心の声に、耳を傾けた。今までそれに紛れて聴こえなかった小さな心の声も1つ1つ丁寧に。
そして、ふと気がついた。ユウイチは自分では耳をかすことのなかったその心の声を、関係のない、一番大切な人にぶつけていたことに。それは近くにいる人に一定の距離以上に近寄られたりすると「親しくなった人間はいつかは立ち去ってしまうもの」という思いが湧いてきてしまい、それを自ら引き起こしてしまうというものだった。

 

「あぁ、俺は今までどれだけ彼女を傷つけただろう。サラ…!」

 

ユウイチは居ても立っても居られな苦なり、起き抜けにあの日の夜から顔を合わせていないサラの部屋の前に立ち名前を呼びながら何度もノックした。サラはまだ布団の中にいた。


まだ眠気まなこの彼女だったが、真剣な面持ちで入ってくるユウイチの顔をみて、サラはすっかり目が覚めた。

 

「サラ、話があるんだ。」

 

ユウイチは、自分の抱えていた過去の出来事も、その時の気持ちもすべて詳細に話した。そしてその心の声が引き起こしてしまった出来事や自分の発言を、何度も何度も、謝りながら。サラは最後まで黙ってそれを聞いていた。一通り話し終えたところでその空間に、沈黙が訪れた。

 

「本当にすまなかった。」顔を伏せてしまったユウイチに、しばらく少し頭を整理するかのようにサラは、やっと口を開いた。

 

サラ「ユウイチ、そんなに謝らないで。私、あなたに何を言われても気にとめてなんかいないわ。あなたからのどんな言葉よりもそれを口にして辛そうなあなたを見ているのが何よりも辛かった。だから、それをあなた自身が見つけられたのなら、今日は本当にほんとうに素晴らしい日だわ!」

 

それを聞いたユウイチは涙が止まらなかった。何も言わずにサラはユウイチの涙をぬぐい、手を握った。

 

サラ「ねえユウイチ、今日がなんの日か覚えてる?今日は私たちが2年目の記念日なのよ!こんなに嬉しいことはないわ。さぁ、お祝いしましょ。」そう言って笑った。

 

サラの愛の大きさは、ユウイチが今までサラにしてきたことへの胸を締め付けるような苦やましい思いを、どんどん溶かしていくようだった。ユウイチの中にあった3つの心の声は、サラによって跡形もなく浄化されていくようだった。

この記念すべき日に、ユウイチはサラの腕の中で、まるで子供のようにしばらくの間泣きじゃくった。

 


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それから、ユウイチの身の回りに起こる問題は、徐々に収束を迎えた。
狂った歯車がまた正常にかみ合うかのように、いや、それ以上にうまくいっているように感じた。もちろん喉の調子もよくなり、心も穏やかになった分、今までよりもより通る声になったような気がした。特にサラとの関係はとても良好だった。ライブの人の入りも回復し、ユウイチの名前はさらに遠くまで知れ渡るようになった。

 

ところが、ある日の夕暮れのこと。ひと仕事終えたユウイチは、真剣な面持ちで夕暮れ丘の向こうの、あの診療所へ向かったのだった。

 

 

 


ユウイチ「こんにちは、先生。」

 

ドアをノックする音とユウイチの存在に気づいて、ドクターはまた、子供を見守るような顔で迎えてくれた。

ドクター「やぁ。よく来たね。しばらくぶりだ。おやおや・・・その調子だと、どうやら心の声はちゃんと辿れたようだね。今の君は腹の底からというべきか、心の底と言うべきか、そんなところから声が聞こえてくるようだよ。さて・・・喉の調子は良さそうだが、今日はどうしたんだい?」


ユウイチ「はい、先生にはとても感謝しています。あれから心の声と向き合って、色々とスッキリして、問題が起こる前よりも上手く事が運ぶようになった。だけど・・・」

 

しばらくユウイチは黙ってしまった。


ドクター「いいよ。続けてごらん。」ドクターはユウイチを安心させるように言った。


ユウイチ「・・・だけど、じぶんが今、何を、何のために歌いたいのかが、わからなくなってしまったんです。」


ユウイチは言葉を詰まらせながら言った。ユウイチは、前回喉の調子が悪くて本当の崖っぷちだったような気がしたけれど、今での歌う動機が失われてしまったかのように思えているこの状況に、以前よりも深刻さを感じていた。


ドクターは椅子の背もたれに頭を置いて、少しの間天井をみた。診療室にしばらくの沈黙が訪れてあと、ドクターは口を開いた。


ドクター「・・・そうか。それは何よりだね。実はそろそろ、きみがもう一度やってくるんじゃないかと思っていたよ。とてもいいタイミングだ。」

 

ユウイチ「そ、それは、どういう事でしょうか・・・?」
ユウイチは良い意味でも悪い意味でも、ドクターがそう思った理由を頭の中で思いついた順に転がした。

 

ドクター「いいかい、声の出どころは2箇所ある。それは前にも説明したね。それは1つは君の「アタマ」、もう1つは「心」だ。そして心の声に従属し続けると、実は心のさらに深い場所からまた別の声が聞こえるようになる。それは【祈りの声】だ。それは君が何者なのかを思い出させてくれる声なのだよ。」


(祈りの声・・・!初診で先生が言っていたことだ。)


ユウイチ「それはつまり・・・本能みたいなものですか?」

 

ドクター「祈りの声は本能とはまた違う。本能は僕たちみんなの身体に同じく埋め込まれているプログラムだからね。

 

その声は君の生命(いのち)の願いのようなエネルギーだ。祈りの声は、どんな他の声よりもとても軽い。つまり、アタマや心の声よりも、とおーくの遠くまで、ふかーい深い場所まで届く性質を持っているということだ。そして君の真の歓びに直結している。心の声も幸せと自由を司るものであるが、祈りの声は、その声が世界に表現されてもされなくても、ただ自分の中からそれが聴き取れただけで、君は歓びに溢れたり、体のどこかに熱を帯びた熱い何かが湧き出るような感覚になったりもする。それはまるで魂が震えるかのような、何にも代えがたい、素晴らしい感覚なのだよ。それは心の声と同様、君にしかわからないし、君がこの世でもっとも歓びを感じられることなんだ。」

 

ユウイチ「それは、みんなが持っているものなんですか?」

 

ドクター「あぁ、そうだ。どうやら祈りの声は絶妙なタイミングで思い出させるようにタイマーのようなものがひとりひとりに設定されている。 「祈りの声」を隠すように「心の声」が、そして「心の声」をかき消すようにあるのが「アタマの声」が君の中で常にうごめいている。そのどれかの声を聞き取って、それをもとに僕たちは実際に肉声として声や、あらゆる行動として世界に表現している。聞き取りが甘ければ甘いほど、心の声に蓋をすればするほど、祈りの声とは一番遠い「アタマの声」でできた世界が広がっていく。

 

けれど、そのアラームがなった途端に、君の心の声を反映していないアタマの声だけで作られた世界が、ぐるんぐるんに荒れるようになるんだ。そうすると、君にとって不本意なこと、不都合なことが次々と起こるようになる。それはきみが今まで頭の声を聞いた分だけね。そして目の前の現実に嫌気がさすんだ。つい最近までの君のように。そして心の声に耳を澄まし、それは君の本当の声を、祈りの声に耳を傾ける時だよ。」

 

ユウイチは今まで身の回りに起きた事を思い返して、それを理解した。

 

ユウイチ「…でも、先生。もし、それが・・・それが俺にとって唄うことじゃなかったら…?」


ドクター「ふぁっはっは。なにも、唄うことに限らないんだよ。祈りの声を世界に放つこと、それはまさに誰かの幸せを祈るように生きることだ。つまりそれは、まるで唄うように生きること。祈りの声を反映させた君の行動一つ一つは君が人生をかけて鳴らす「音」になる、つまりそれを鳴らし続けていれば人はどんどん巻き込まれてゆく。そして音と音とは互いに結びつき、それはいずれ「音楽」となる。今度はきみ自身が、音楽そのものになるんだよ。」

 

ユウイチは、自分の投げ掛けたじぶんの質問にあとからちょっと複雑な気持ちになったが、そのあとの先生の答えを聞いて、とても嬉しくなった。


ドクター「君はこれから本当の意味で、人生をかけて歌うんだ。祈りの声を世界に届ける時、そして全身で唄う時なのさ。」

 


ユウイチはしばらく黙って、決意を固めたかのように続けて言った。
「あぁ、先生・・・僕は、やっぱり唄う事が好きだ。だけど、それを続けながら、未来を担う潜在性に富んだ子供たちや若手の力を、引き出してあげたい。まだ世界を見ていない表現者を、育てたいのだと思う。」

 

誰のためでもない、ナニーのためでもスーザンのためでもない。該当する特定の人は見つからず、周りにいる人どころか、それは【世界】というとても壮大なスケールで、とても漠然としつつも、確かな感覚がユウイチにはあった。それが、祈りの声だということがどこか確信的に思わせた。

 

ドクター「ふむ、それはすばらしいことだ。私の胸にも、何もとっかかりなく君の祈るような思いは届いたのがその証拠だろう。さあ、きみはもう、祈りの声が聴こえている。すると、誰かの声も聴こえるようになるはずだ。」

 

ユウイチ「とてもスッキリしました、先生。ありがとう。」

 

ドクター「今この惑星では、みんなのアタマの声で作られた世界が、次々と崩壊し始めている。世の中に問題が溢れ始めているのはそのせいだ。だけどそれは、良いことの前兆なのだよ。それはつまり、みんなが幸せになろうとしているということなんだ。祈りの声は、いまこの惑星に必要なんだよ。」

 

ユウイチは、もう何も迷う事がなくなった。その言葉が、決意に変わった。何をしなくてはならないかも、ユウイチの深いところで理解した。その真剣な目つきと、ユウイチから漂わせる何かを、ドクターも感じて嬉しくなった。

 

ドクター「君は、もう立派な歌唄いになった。きっと、これから良き指導者にもなるだろう。」


診療所を出て歩き始めると、夕暮れ丘には満点の星空が広がっていた。
月の隠れた新月の今日、いつもは見えない遠くとおくの小さな星まで見える。

 


ユウイチ「あぁ、これからの構想が次々と湧いてくる・・・!新しい歌の旋律だって、どんどん流れてくる。そしてたくさんのアイディアも・・・あぁ、書き留めるのが大変なくらいだ!明日はマスターに早速話して、街のみんなにも協力してもらうんだ。今日はたくさんやらなくちゃならないことがあるぞ!

 

 

さぁ、この星空が、暁の空に変わる前に!」

 

 


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さぁ、歌え。とどけ。

 

祈りの声よ。

 

いつも耳をすませば、すぐそばに。

 

今がその時。己のすべてを思い出す時。

 

 


さぁ、響け。ひびけ。

 

祈りの声よ。

 

 

今がその時。声を届ける約束の時。

 

 

まだ見ぬ世界の果てまでも。

 


そして誰も知りえぬ、未来の世界の果てまでも。

 

 

 

 

 

おしまい。